※本稿は、成田龍一『司馬遼太郎の幕末・明治『竜馬がゆく』と『坂の上の雲』を読む』(朝日文庫)の一部を再編集したものです。
上士vs郷士を象徴する「井口村事件」
幕府も土佐藩も政情が大きく動くなか、1859年3月4日の「血なまぐさい」出来事に、竜馬は入り込みます。上士の一人が出会った郷士を切り殺し、その郷士の兄が敵として上士を討ったため、上士と郷士の集団の対立となった、井口村での出来事に、竜馬もかかわるのです。
軽格の郷士の代表に竜馬は担ぎ上げられ、殺気だった双方のなかに入り込みます。郷士の兄が自害したため、事態は収拾されますが、他藩では考えられぬ武士同士の対立、と司馬はいいます。司馬の土佐藩理解と重ねあわされての言ですが、この出来事は、のちに、土佐藩の軽格連中が勤王運動に参加をする一因となる、と司馬は続けます。
この「井口村事件」は、坂本竜馬の伝記の代表作である坂崎紫瀾『汗血千里駒』(1883年)に大きくとりあげられていて、司馬はそれを踏襲したと思われます。
砲術修行にあえて触れなかった理由
1859年という年には、竜馬は9月に、西洋流砲術家・徳弘孝蔵に入門するのですが、司馬はこの出来事を重視し、砲術修行にはふれていません。史料を徹底的に調査する司馬のことですから、徳弘への入門について知らなかったことはないでしょう。
司馬は、収集した史料のなかから自らの竜馬像を作りあげるのにふさわしい材料を提出し、その竜馬像にはそぐわない史料として、砲術修行にかかわる事項は捨てたと考えられます。西洋に対する武力的対抗の要素を、司馬の竜馬像に持ち込みたくなかったからでしょう。
歴史学においては、自らの解釈にそぐわない史料であっても、その旨を記したうえで言及されます。都合の悪い史料もあるが、自らの解釈はこうだ、とするのです。歴史小説の場合には、提示しないことのほうが普通のようです。ただ、これも優劣の問題ではなく、作法の傾向ということとして、考えておきたいところです。
井口村事件をめぐっての記述では、三つのポイントがあります。

