家康の窮地を救った「運の強さ」
天正13年(1585)3月までに、石川数正は「康輝」と改名していた。「康」の字はいうまでもなく、「家康」から1字をもらったもので、それほど家康の信頼は厚かったのだ。しかし、徳川家中の主戦派には決して同調できない水準で、秀吉が圧倒的に強大な勢力を築いていることを知り尽くしてしまっていた。
天正13年(1585)11月13日、石川数正は家族のほか、家康の人質になっていた信濃(長野県)の国衆、小笠原貞慶の子を連れて(貞慶はすでに秀吉に従属していた)、秀吉のもとへと出奔した。徳川家中ではもはや死に体となり、命さえ狙われかねない状況に置かれていたとあれば、それしか道はなかったといえよう。
じつは、その直後、秀吉は家康の成敗を決断している。翌春にも進軍するつもりだった。実現していれば、家康は滅亡するか、生き残っても領土の多くを没収されてしまったことだろう。ところが、その矢先の天正13年(1585)11月29日の夜半に、マグニチュード8.6程度と推定される巨大地震(天正地震)が発生した。
畿内から尾張(愛知県西部)まで被害が甚大で、秀吉は家康成敗に出陣することができなくなり、軍事力を使わずに家康を臣従させるべく方針を変更した。いわば、家康は天災に救われただけで、情勢を冷静に読むことができていたのは数正だったのである。
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