主戦派ばかりだった徳川家中
信長の旧臣で越中(富山県)を治める佐々成政を、秀吉が服属させようとした際、家康が成政と手を結ぼうとしている、という噂が立った。これを受けて織田信雄は家康に、秀吉がいだいた疑いを拭うために、さらに人質を出すように家康に勧め、秀吉自身も家康に、あたらしく人質を送るように求めてきた。
そして、この話を進めていたのも石川数正だった。徳川家が生き残るための道は、強大化した秀吉との融和しかない、というのが数正の数々の体験にもとづいた実感だったはずで、家臣団のなかでも繰り返し、そう訴え続けた。
だが、徳川の家臣の多くは、秀吉の要求に屈することに納得しなかった。たとえば、酒井忠次も、本多忠勝も、長久手合戦では勝利したのに、不利な和睦に持ち込まれた挙げ句、秀吉に頭を下げるなど、ましてや臣従することなど到底受け入れられない、という姿勢だった。
このように徳川家中には強硬派、すなわち対秀吉の主戦派が圧倒的に多く、融和派の数正は、事実上の孤立無援状態に陥ったのである。
まるで太平洋戦争末期の参謀本部
結局、家康は、主戦派が大半を占める重臣たちに押されるように、天正13年(1585)10月28日、秀吉からの人質要求を拒否。同じ日には、徳川家の重臣たちと小田原の北条家の重臣たちのあいだで、起請文が取り交わされた。これはすなわち、家康が秀吉と断交してあらたな決戦を決意し、その後ろ盾になるように北条との同盟関係を強化した、ということであった。
こうなると、秀吉との折衝を一手に引き受け、家康との関係を融和させるべく努力を重ねていた数正は、まったく立場がない。当時の家康と秀吉の勢力図を俯瞰すれば、家康に勝ち目はまったくなかった。そのことを終始、数正は徳川家中で説いてきたのだが、その正論は当時の徳川家中においては、太平洋戦争末期に無謀な戦いを続けた参謀本部内で、「勝ち目はない」と主張するのにも似ていた。
つまり、秀吉の力の強大さがわかっていたばかりに、数正は徳川家中で敗北し、立場を失い、政治生命さえ絶たれかねないほどの窮地に陥ったのである。
「豊臣兄弟!」の第34回では、織田信雄の重臣で秀吉との取次を担当していた津川雄光(早瀬栄之丞)が、秀吉への宣戦布告の印として誅殺された。この時代、政争に敗れれば誅殺されても不思議ではなかった。数正も徳川家中で、同じような目に遭う危険性は十分にあったと思われる。

