家康と一緒に今川家の人質に

実際、家康が数え8歳で今川家の人質となり、駿府(静岡市葵区)に送られたとき、数正は同行して、家康が19歳になるまで近くで仕えた。以後も、外交的な案件となると、のちに本多正信が頭角を現すまで、数正がほとんど一手に引き受けた。

第34回で数正が大坂城を訪れたのは、賤ヶ岳合戦の戦勝を祝うためで、そのころは大坂築城がはじまったばかりで、場所は坂本城(滋賀県大津市)など、ほかの城だった可能性も高いが、秀吉に名器として名高い茶入れ「初花肩衝」を進呈している。

家康が信雄と組んで秀吉に対抗し、天正12年(1584)3月から小牧・長久手合戦がはじまると、数正も参戦した。だが、この戦いは、羽柴方の軍勢が10万とされるのに対し、徳川方は3万ほどで、兵力では最初から話にならなかった。4月の長久手合戦では、徳川方が羽柴方の作戦を察知して派手に勝利するなど、局地戦では奮闘したが、長期戦になると戦力がものをいう。

「小牧長久手合戦図屏風」一隻
「小牧長久手合戦図屏風」一隻(豊田市郷土資料館所蔵)(写真=『新修豊田市史 別編 美術・工芸』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

家康は秀吉の軍勢が、自身の領土である三河以西に侵攻することは防いだ。しかし、膠着状態の末、同盟相手の信雄が調略され、秀吉と和睦を結んでしまうと、「秀吉の専横から織田家を守る」という大義が失われ、秀吉と講和するしかなくなった。こうして合戦は事実上、秀吉の勝利で終わったわけだが、秀吉との講和交渉で矢面に立ったのは数正だった。

秀吉の権力の巨大さを知ってしまった

天正12年(1584)11月、秀吉とのあいだで結ばれた和睦は、あきらかに家康の敗北だった。家康は秀吉から求められるままに、次男の於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子、とはいえ事実上の人質として差し出し、於義丸に随伴すべく、数正の2人の息子、康長と勝千代(のちの康勝)も秀吉のもとに送られた。むろん2人も事実上の人質だった。

この実際には敗北になる和睦交渉を、まとめ上げたのが数正だといわれる。だが、数正から見て、徳川が生き残る道は、ほかにありえなかったと思われる。

これまで幾度となく秀吉と面会し、折衝を重ねてきた数正は、秀吉の権力がどんどん巨大化し、戦力も恐ろしいまでに強大になり、いまやまったく歯が立たない相手であると、骨の髄にまで染みるように知っていた。徳川の家臣団のなかで唯一、秀吉と直接折衝している数正は、秀吉の力を知悉する唯一の家臣でもあった。

おそらくここまでは、家康のほかの重臣たちも、数正の判断をやむをえないとして受け入れたのだ。しかし、天正13年(1585)6月から7月にかけ、事情が変化した。