大津城の天守を改築
さて、移築建築についてである。金亀山内に天守のほか、天秤櫓、太鼓門と続櫓が残ると前述したが、これらはいずれも他所から移築された、すなわち他所に建っていたものをいったん解体し、木材を運んできて組み立てたことが明らかになっている。
三重三階の天守は、関ヶ原合戦後に廃城になった大津城(滋賀県大津市)から運ばれてきたことが確実である。『井伊年譜』には「天守ハ京極家ノ大津城ノ殿守也、此殿守ハ遂ニ落不申目出度殿主ノ由、家康公上意ニ依て被移候由、棟梁浜野喜兵衛恰好仕直候テ建候由」と書かれている。
つまり、天守は関ヶ原合戦時に京極高次が籠城し、西軍を食い止めた大津城から運んできたもので、落城しても焼失しなかったことから、家康は「めでたい天守」だとして移築を指示し、大工の棟梁がカタチを変えた、というのである。解体修理の結果でも、移築されたことと、五重か四重の建築を三重に改築したことがわかっている。
また、本丸の入口に建つ太鼓門と続櫓も、どこの城かわからないが、規模が大きな城門を移築し、小さく組み直したことがわかっている。太鼓門に至る前に、鐘の丸から堀切に架けられた廊下橋を渡って必ずくぐる天秤櫓は、左右に二重櫓をしたがえたユニークな形態だが、これも長浜城(滋賀県長浜市)の大手門を移築した可能性が高い。『井伊年譜』には「鐘ノ丸廊下橋、多門櫓ハ長浜大手門ノ由」と書かれている。
ヨーロッパの石造建築では不可能なこと
ほかに石垣の一部も、石田三成の佐和山城(彦根市)などから運ばれている。豊臣氏に備えるためにも築城が急がれ、工期を短縮するためには、ほかの城から建造物などを運んできてリサイクルするのが手っ取り早かったのである。
そのなかで石垣のリサイクルだけなら、世界でも普遍的な作業だが、建造物のリサイクルは日本の木造建築ならではの特徴だった。日本の伝統工法による木造建築は、金物を使わず、木材同士を継手や仕口と呼ばれる凹凸で接合する。つまり、木を組み合わせているだけなので、簡単に解体し、他所に運んで組み立て直すことができる。
そんなことはヨーロッパなどの石造建築では不可能だ。シンボルである天守を筆頭に、日本でしかできない移築を活用し、軍事的な目的に応えたのが彦根城で、しかも、それらが多く残るという世界に稀有な事例なのである。
もうひとつ、彦根城ならではの特徴が指摘できる。城とはもともとが、敵の攻撃や侵入を防ぐための軍事施設で、それが次第に領地支配の拠点となり、政治や文化の中心地にもなっていった。彦根城の場合、第1期の工事が、まさに軍事的な目的のために国を挙げて行われ、平和が訪れてのちに、第2期の工事で、藩政の拠点、ひいては政治や文化の中核となるべく整備された。
いわば成り立ちからして二重の意味を負っており、そういう城は決して多くはない。このような彦根城だけの特徴をしっかり強調していれば、もっと早く世界遺産に推薦されていたのではないだろうか。だが、彦根城だけの価値と魅力がこんなにあるのだから、いまからでも、それらをもっとアピールすることを勧めたい。
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