「大名の統治システム」より珍しい要素
彦根城は中核部の金亀山(彦根山)に、国宝の天守を筆頭に天秤櫓、太鼓門櫓と続櫓、西の丸三重櫓などが現存し、内堀と中堀のあいだにも佐和口多門櫓や、日本の城では唯一の遺構である馬屋などが残る。いま挙げた天守以外の建造物も、みな国の重要文化財に指定されている。
それ以外に、藩主の屋敷であった楽々園や、その広大な庭園である玄宮園も城内に残る。城郭の御殿建築が残っている例はきわめて少ないので、貴重な遺構であり、外交のための施設としても重要だった庭園も、「大名の統治システム」の一端を担っていた。また、中堀の内側には西郷屋敷長屋門や脇家屋敷、木俣屋敷などの重臣屋敷も部分的に残り、家臣たちが城の周囲に集住していた様子がいまに伝わる。
要するに、天守や櫓、門などの城郭建築が、石垣や堀などと一緒に残っているが、彦根城にはそれに加え、御殿や馬屋、重臣屋敷など、当時の「大名の統治システム」を支えていた遺構も数多い。
たしかに、そのシステムを象徴する遺構がまとまっているが、「大名の統治システム」自体、日本中どこの城にもあったもので、よく残っていることを除けば、珍しい事例とはいえない。一方、彦根城には元来、ほかの城にはない特徴と魅力があった。それが、世界に類を見ない「移築遺産」だという事実である。
彦根城の主要建造物は、ほかの場所から運ばれてきており、それは日本以外ではほとんど見られない特徴なのだが、滋賀県と彦根市は、どうしてそこに目を向けないのだろうか。その価値に気づいていないのだろうか。
家康が大急ぎで築いた背景
彦根城の築城工事は2期に分かれ、第1期は完成がかなり急がれた。当時の藩主は、徳川四天王のひとりだった井伊直政の嫡男、直継だが、まだ幼少だったので、家老の木俣守勝が徳川家康の許可を得て、家康の支援のもと、慶長8年(1603)から工事が開始された。
家康は各大名に土木工事を負担させ、いわゆる天下普請で工事は進められたが、もちろん家康には家康のねらいがあった。当時、大坂城には豊臣秀頼が健在で、大坂とのあいだに有事が発生する可能性は低くなかった。そこで家康は、彦根城を有事の際の前線基地に想定したのである。
一方、第2期の工事は慶長20年(1615)に豊臣氏が滅んでから、譜代大名の筆頭である井伊家の居城の築城工事として、井伊家の手で行われた。山麓に表御殿が建てられ、中堀沿いの石垣や門が元和8年(1622)ごろ完成した。
第1期に築かれた内堀の内側と、第2期に整備されたうちの中堀の内側は、現在も石垣と堀がほぼ旧態をとどめている。

