橋本聖子(ソチ五輪日本選手団団長)
オリンピックの申し子である。4年前のバンクーバー五輪に続き、開幕したソチ五輪の日本選手団の団長を務める。
盛大な壮行会の直後の記者会見。49歳の橋本聖子団長の顔には珍しく、緊張感が浮かんでいた。
「オリンピックへの関心の高さを非常に感じました。責任の重さをひしひしと感じております」
1964年東京五輪の開幕直前にこの世に生を受け、聖火にちなんで「聖子」と名付けられた。二度目の東京五輪パラリンピック開催(2020年)が決まってから、ソチ五輪が初めての五輪となる。どうしたって期待も注目も高まる。
「東京五輪に向け、大事なスタートと思っております。ソチ五輪での熱い思いを次のリオデジャネイロ(16年夏季五輪)へ、リオからピョンチャン(平昌=韓国、18年冬季五輪)へ、そして東京へとつながっていくよう、がんばっていきたいと思います」
東京五輪までの6年間が、常々口にする「スポーツのチカラ」を社会に役立てる好機となる。選手たちのがんばる姿を国民に見てもらい、勇気と元気を届けたい。とくに被災地の人々に届け、復興のチカラともなりたい、と願っている。
がんばる姿は尊いのである。橋本団長は冬の五輪にスピードスケートで4度、夏季五輪には自転車で3度のトータル7度、五輪に出場した。92年アルベールビル冬季五輪では、スピードスケート1500mで銅メダルを獲得した。
取材して驚いたのは、練習好きで決して手を抜かない真面目さだった。印象に残るレースが、スピードスケートでは「ラストラン」となった94年リレハンメル冬季五輪の5000mである。根性と粘り。最後にラップを上げ、力を振り絞ってゴールした。8位入賞だった。
現役引退後も、国会議員としてがんばっている。日本オリンピック委員会(JOC)の理事を務め、20年東京五輪パラリンピック招致でも尽力した。余談ながら、警視庁勤務の夫はラグビー経験者である。
「選手第一」を大事にしている。ソチ五輪では、冬季五輪で初めてマルチサポートハウスが平地と山に作られた。食事やコンディショニングなどを支援する。
「やはりオリンピックは最高の舞台ですし、それぞれの選手がそれぞれの思いで金メダルを目指しております。選手を信じ、全力で目標に向かっていけるようにサポートしたい。そういったサポート体制を作るのが、私の務めです」
ソチ五輪ではテロの懸念もある。情報網や危機管理体制の構築も必要になる。要は、選手を守るため、競技でベストの力を発揮してもらうためである。
「選手たちにストレスがかからないような安全策をつくりあげていきます。外務省やソチの組織委員会と連絡を取り合ってやっていきたい」
日本選手団のソチ五輪のメダル目標は、過去最高の「長野(金5、銀1、銅4)を超えること」である。つまり金5個以上を含む、メダル10個以上である。