「炎上しても、責任は取れません」
一方で、パッケージのデザインは、あえて東京のデザイナーに依頼した。外からの目線で見た大阪を描いてほしかったからだ。
ところが、デザイナーから思わぬ懸念を伝えられる。「母」をモチーフにした商品は、多様性が重んじられる今、炎上しがちだというのだ。キャッチコピーに「ママ」や「お母さん」を使うと、「ママがいない子もいる」「なぜパパはないの?」という声があがる時代である。デザイナーは「炎上しても、責任は取れません」と言ってきた。
多田さんは社内で相談し、特に、従業員のおよそ7割を占める女性の意見を尊重した。そして、こう結論づけたという。
「私たちのおかんは、ジェンダーレスです。おかんは、おかんという生き物である」
仮に炎上しても、自分が謝りに行けば何とかなる――。
そう腹をくくり、モコモコのパーマ頭にヒョウ柄服、白エプロンを着たぽっちゃりおかんのキャラクターが爆誕した。
100箱が、500箱になった
そして、冒頭の場面に戻る。
2024年7月、1日100箱限定で発売したおかんパンは、午前中に棚から消えた。
「えっ、もうないん?」と聞きにくる客が続き、売り切れの貼り紙が出た。店からは次々に「もう少し増やしてほしい」と連絡が入り、追加を焼き上げて持っていっても、すぐ売り切れてしまう。1日限定100箱が200箱に、200箱が300箱に、じわじわと発売数は増えていった。
想定外の客も現れた。夏休み、大阪の外から働きに来ている学生アルバイトたちが、実家への帰省土産にと大量に買い求めたのだ。
当初多田さんが見込んでいたのは、観光客への土産需要だった。だが実際には、大阪に暮らす人が「ちょっと笑ってもらえる手土産」として選ぶニーズにおかんパンはハマっていった。
やがてテレビ番組で次々と取り上げられ、売れ行きは爆発。多い日には1日500箱、ひとつの箱に6個だから約3000個分のおかんが、ジュッという音と共に焼印され、職人の手元から世に送り出されていく。連日500箱が続いた時期は、腕が痺れるほどだったという。
「忙しい」「でも、楽しい」
それでも、現場は暗くなかった。テレビの生中継が工場に入った日には、3階の食堂に従業員が集まり、画面に向かって「頑張れ!」と声援を送る。普段は静かな食堂が、応援団席のようになった。
「忙しいけれど、楽しい。これってすごく大切な忙しさだなと思ったんです」
多田さんは満足そうにそう語る。コロナ禍、息を潜めるようにパンを焼いていた日々が、嘘のようだった。
しかし、振り返れば、おかんパンが店頭に並んだ2023年は、ダイヤがコロナ禍の3期連続赤字から、ようやく水面に顔を出した時期だった。過去最大の損失を出し、銀行に頭を下げ続けた数年間。その会社が、なぜこれほどのヒットを生み、量産体制を支えきれたのか。
後編では、赤字3期から組織の立て直しと、ヒットを支える現場づくりを聞く。





