「危機がチャンスをくれた」
しかし、社員が辞め、売り上げが崩れ落ちていく中で、ひとりだけ前を見据えている男がいた。
村上清貴(旧姓 田村)さん、当時36歳。入社からまだ3年目の後継者候補だ。
村上さんは1960年、山口県の生まれ。広島大学に入学し、1979年から母方の大叔父であり、村上農園の創業者である村上秋人さんの家に居候した。秋人さんはその前年にカイワレの生産をはじめ、農園を株式会社化していたため、長期休暇時には時々アルバイトとして働いた。
大学卒業後はリクルートに入社。法人営業、映像事業の営業課長、マーケティング企画課長を経験する中で、徹底的に叩き込まれたのは「自分の頭で考える」姿勢だった。
「上司に相談しに行くと、『お前はどうしたい?』と逆に聞いてくる社風で。おかげで、常に『収益はどちらが多いのか』を指標に自分で判断するようになりました。でも、上の言うことを聞かずに業績を上げ、『文句を言われる筋合はない』とか言ったりしていたので、上司は面白くない。そうすると嫌われるわけです」
仕事の口論もしょっちゅうだったそうで、10年間のリクルート時代を「普通の人の一生分働いた」と振り返る村上さん。
バブル崩壊後の閉塞感を感じていた1993年、「いずれは後継者に」という先代の誘いに応じ、33歳で村上農園に転職した。妻と3人の娘を栃木県宇都宮に残し、単身で広島に入ったという。覚悟の表れだった。
「親族だからとか、後継者だからということではなくて、ゼロから経営を学び、会社を発展させる状況を作っていこうと思っていました」
ところが、入社からわずか3年。ようやく業界の状況が見え始めた頃に、O-157による風評被害が襲った。妻からは「本当に大丈夫なの? つぶれるんじゃないの? 転職しないほうが良かったんじゃないの?」とも言われた。
だが、村上さんに後悔はなかった。むしろ、「チャンスが来た」と感じたという。
カイワレ専業、薄利多売のビジネスモデル
当時、カイワレ大根の価格競争は激しく、収益性が極めて低い薄利多売の事業だった。
村上さんの入社前、村上農園は破綻した中古農場を次々に引き受け、業界30%のシェアを持つナンバーワンメーカーに成長していた。ただ、そこからの成長戦略が描けていなかった。
販路を広げようとしても、販売ルートは卸売市場経由の売り上げが9割で、営業マンが市場の担当者と世間話をして人間関係を築くスタイル。量販店との直接取引はない。社員は現場仕事には強かったが、商品開発やマーケティングの知識を持つものは少なかった。
そこで村上さんは、新しい野菜の開発を提案する。けれど、先代に強く反対された。どんな企業でもそうだが、それまで続いていたやり方を変えるのは難しいものだ。
しかしO-157をきっかけに、変えざるを得ない状況に変わった。
「その頃、先代はとにかく出費を減らすために、出張するな。電話はなるべくかけず、かかってくるのを待て。かける場合は相手をメモしておけ……などと指示していました。でも、その状態では売り上げを上げようがありません。つぶれる前になにか手を打たなければならない。誰が手を打てるかといったら、私しかいない状態でした」
危機が、チャンスを与えてくれたのだ。


