城主・森可成が討死にした後

冒頭に記した通り、「志賀の陣」は1570(元亀元)年の9月から約3カ月間にも及ぶ争乱だったが、その最初期の9月下旬に、「宇佐山城の戦い」が勃発する。比叡山の援軍として寄せてきた浅井・朝倉連合軍は約3万。対する可成率いる宇佐山城兵ほか織田軍は約1千。圧倒的不利な状況下にありながら、可成は籠城せず、敵が南下してくる街道へと討って出る。緒戦では千の首を取るなど活躍するも、徐々に押され敗戦。可成も討死してしまう。

この合戦では、信長の五男とも七男ともされる実子の信治も、救援に駆けつけ、わずか27歳で討たれている。

ただし、大将は散っても城は残った。城兵達の必死の抵抗により、数日後に信長の援軍が到達するまで宇佐山城を守り抜いた。いわば可成は身を挺して、主君・信長が浅井・朝倉軍に背後を突かれるのを防いだのだ。そこには可成による築城の恩恵が少なからずあったに違いない。これにより最前線は維持され、3カ月後の講和まで持ち堪えることになる。もっともその翌年、関係は悪化し「比叡山焼き討ち」となるわけだが。

森蘭丸が信長に寵愛されたワケ

可成には6男3女、9人もの子がいた。長男は可成とともに討死し、森家の家督は次男・長可ながよしが継ぐ。その弟で三男の森蘭丸(通称)は1565(永禄8)年の生まれなので、父・可成が討ち死にした時点でまだ4〜5歳だった。1577(天正5)年、10代となった蘭丸は小姓として信長の側に仕えることになる。そして、本能寺の変で2人の弟ともに、信長に殉じた。

落合芳幾「太平記英勇伝「六十六:森蘭丸長康」(東京都立図書館所蔵)
落合芳幾「太平記英勇伝 六十六:森蘭丸長康」(東京都立図書館所蔵

蘭丸が信長の寵愛を受けたことは世によく知られているが、信長はその姿に時折、忠臣・可成の面影を見ていたのではないだろうか。志賀の陣で命を賭して織田軍を守った、勇猛果敢な男の戦いぶりを。

坂本にある聖衆来迎寺にある森可成の墓
撮影=今泉慎一(風来堂)
坂本にある聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)にある森可成の墓
【図表3】戦国の城5技能採点表「宇佐山城」
【関連記事】
サルでもハゲネズミでもない…外見にコンプレックスを抱える秀吉が信長に付けられた「もう一つの呼び名」
石田三成と戦っていないのに関ヶ原合戦後に大出世…徳川家康が厚い信頼を置いた「戦国最大の悪人」
「子供を自分の作品」にしてはいけない…日本一の進学校教諭が見た「本当に頭のいい子の親」の意外な特徴
大地震でまず確保すべきは水でも食料でもない…被災者が「これだけは担いで逃げて」という最も重要なモノ2選【2025年7月BEST】
11体のラブドールと暮らし"正しい性行為"を楽しむ…「人より人形を愛する男たち」が奇妙な生活を始めたワケ