急峻な崖上に石垣を築く意味

縄張図を見ると、二の丸側の尾根道が大手道(城の正面ルート)とされているが、二の丸の南端はさらに落差のある切岸になっていた。脇から侵入する敵は大堀切で、大手道から登ってくる敵はこの切岸で撃退する。もうひとつの防衛上の最重要ポイントがここだろう。万が一、突破されたら、先ほどの切岸&横堀でなんとか食い止める戦略だったと思える。

二の丸南端の切岸を城外より。転がる巨石はかつての石垣跡?
撮影=今泉慎一(風来堂)
二の丸南端の切岸を城外より。転がる巨石はかつての石垣跡?

続いて登山道から見えていた東側面の石垣へ。大堀切から回り込むように踏み跡はあるが道はない。登山道からはるか頭上に見上げる角度ではわからないが、近づいてみると実に細かな造作が見られる。ところどころ崩壊しているが、450年以上前のものとは思えないほど堅固だ。

数10cmの高さで一列に並んだ石垣
撮影=今泉慎一(風来堂)
数十cmの高さで一列に並んだ石垣
角部分にも石垣。その周辺の山肌は石垣が剝がれ落ちた跡か
撮影=今泉慎一(風来堂)
角部分にも石垣。その周辺の山肌は石垣がはがれ落ちた跡か

志賀の陣、信長は押され気味だった

崩壊部分について想像するに、見事な野面積のづらづみの石垣は本丸の東側面を覆っていたと思われる。ただしあくまで山上付近のみ。そもそもとんでもない急傾斜なのだから、石垣がなくとも十分に守りが固そうだ。それでも敢えて石垣で強化するところが、実にぬかりない。

登山道から見えていた石垣。城内最大の幅と高さ
撮影=今泉慎一(風来堂)
登山道から見えていた石垣。城内最大の幅と高さ

最前線に築かれる陣城には、出撃拠点的な役割とともに、前線を維持するための防衛拠点的な役割もある。志賀の陣の際、実は信長の方が押され気味だった。いわゆる「信長包囲網」によって各地域で敵と対峙しており、比叡山方面だけに全力投入することは難しかったのだ。ただし、機を見て一気に攻め込むのは信長の得意とする戦略。宇佐山城は、その時が来るまで最前線を死守するための拠点と考えれば、このぬかりなさも納得だ。