信長VS前門の朝倉・後門の浅井
第8回:金ヶ崎城(福井県敦賀市)・天筒山城(福井県敦賀市)・国吉城(福井県美浜町)
時は1570(元亀元)年4月、妹・お市の嫁ぎ先で、同盟関係にあった義弟・浅井長政によるまさかの謀反。その時、織田信長は朝倉攻めのため、敦賀にいたのだが、南に接する北近江を領していたのが長政。正面に朝倉軍。そして背後から浅井軍。おそらく彼の人生の中で、(本能寺の変を除けば)最大のピンチだったといっても過言ではない。
信長はやむなく、京へと撤退することになる。主君を無事に逃すため、迫り来る朝倉・浅井連合軍を食い止める必要がある。そこで現地にとどまり殿役(軍勢の最後に逃げる役割)をみずから買って出たのが、羽柴藤吉郎(後の秀吉)だった──。
以上が、一般的に知られている「金ヶ崎の退き口」の概要だ。実際には、殿を務めたのは秀吉だけではなく、明智光秀ら他の武将たちもいたという。彼らが決死の覚悟で籠ったのが、金ヶ崎城(図表1①福井県敦賀市金ヶ崎町1-1)だ。東に伸びる峰続きの天筒山城(図表1②福井県敦賀市泉)とともに、北から迫る朝倉軍に対峙することになった。
金ヶ崎の撤退戦が成功したワケ
「金ヶ崎の退き口」と呼ばれるだけあって、撤退戦の舞台はこの2城だと思われている。だが、実際の戦場はもう少し広い範囲だったのではないか。というのも、北近江から北上してきた浅井軍は、少なくとも疋田(福井県敦賀市疋田)までは進軍していた記録が残っている。二城から疋田までは直線距離なら南にわずか5kmほど。疋田から北上すればすぐに敦賀平野へと至る。信長軍にとっては、喉元にナイフを突きつけられるような位置だ。
疋田は、近江から敦賀へと向かう街道の要所にあたり、京や岐阜へも通じるが、敵方についた長政に押さえられた以上、このルートは撤退に使えない。信長はいち早く、西の若狭方面へと進路をとったと思われる。そしてその先にあるのが、国吉城(図表1③福井県美浜町佐柿)だった。



