若狭には頼りになる勇将がいた
「関峠」とは、越前国と若狭国の国境にある峠ゆえにそう呼ばれる。標高わずか103mの峠を若狭側(西側)に下った位置にあるのが国吉城だ。
先ほどの地図を見れば一目瞭然だが、金ヶ崎城と天筒山城に籠って抵抗を続けていても、南の敦賀平野を浅井軍に押さえられてしまっては(実際に浅井軍はそうしたであろう)、その西へと逃げた信長への防波堤となることはできない。一方で、国吉城であれば、信長を迎え入れ、そして京都方面へと逃した後に、敵の進軍を食い止めるには格好の位置にある。
そして、この城は若狭国でも稀に見るほどの堅城で、守将もいくさ上手な男だった。国吉城の城主・粟屋勝久は、若狭守護・武田家に従う有力国人だ。信長の朝倉攻めまでの若狭は、たびたび朝倉義景の侵攻を受け、あげく守護の武田元明が拉致されてしまい不在に。そんな中、ほぼ孤立無縁で朝倉軍に抵抗し続けていたのが国吉城の粟屋勝久だった。
浅井謀反前には、朝倉攻めのために進軍してきた信長軍を国吉城に招き入れ、信長にもその勇猛ぶりを激賞されてもいる。史料には残されていないが、「金ヶ崎の退き口」においても勝久が信長の窮地を救った可能性はあるのではないか。
1563(永禄6)年から毎年のように来襲する朝倉軍に、籠城戦で全勝。絶体絶命のピンチにおいて、これほど頼りになる城もない。いったいどれほどの堅城ぶりだったのか、その遺構をのぞいてみたい。



