その後の「朽木越え」から推測
以上はあくまで筆者の「推測」である。「金ヶ崎の退き口」の際、信長が国吉城に立ち寄ったという確固たる一次資料は残っていない。ただし、これだけの堅城で、城主の粟屋勝久は朝倉軍へ長年抵抗を続けた男。頼らない手はなかったのではないか。
窮地を脱した信長は、近江でも琵琶湖岸は通らず(通れず?)、西のはずれの朽木谷を抜けて京へと無事逃げ帰っている。若狭から朽木谷を抜けて京へと至る道は、いわゆる鯖街道。この「朽木越え」ルートから推測してみても、若狭における信長軍の強力な味方だった粟屋勝久を頼ったとしか思えない。
「金ヶ崎の退き口」から3年後の1573(天正元)年8月、越前・一乗谷に信長軍が一気呵成に攻め込み、朝倉家は滅亡。そこには粟屋勝久もおり、見事に幽閉されていた主君・武田元明を救い出すこととなったのだった。



