※本稿は、松元崇『武器としての日本語思考』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
主語を持たない日本語の原点を思い出す
「世間」の中での自分の位置を確認し、その上で様々な相手と相対的な関係を臨機応変に取り結ぶ機能を持つのが日本語ですが、その過程で相手との心理的な距離をうまくコントロールし、相手と感情を共有する構造が創り上げられていきます。
その際、様々な人から受け取ることが期待される思いやりの集合体が自然と出来上がりますが、それを日本語の持つ「寄り添い機能」と筆者は呼んでいます。そのように日本語の言語空間がはぐくんできた「寄り添い機能」が、西欧文明の流入がもたらした「自我」によって失われていきました。
日本語の持っているこの「寄り添い機能」を復活させるためにはどうしたらいいのでしょうか。
多くの日本人は「寄り添い機能」がない所では不安になって立ちすくみ、その潜在力を発揮するどころではなくなってしまっています。
筆者は、その状況を改めるためには、人間みな平等という日本文化の原点を思い出すことが大切だと考えています。それは、「世間」で様々な主体が変幻自在に立ち現れてくるという、主語を持たない日本語の原点を思い出すことでもあります。
人間みな平等という考え方は、今日の世界から急速に失われていっているものです。GAFAMなどの巨大IT企業が登場し、格差社会化が顕著です。
米国でトランプ大統領が登場した理由の一つも、米国において中間層の所得が伸びず、貧富の格差が極端に拡大してきたことだと考えられます。お金持ちと貧しい労働者に二分される状況は、とても人間みな平等といえるものではありません。
日本もそのような世界の流れの影響を受けています。企業は社員みんなのものだから、経営者だけがとんでもない高給を取ることなどありえないというのが、かつての考え方でした。
それが、企業の発展は経営者の才覚次第だという考え方が入ってきて、株主に少しでも高い配当をもたらす経営者には、それに見合う高い報酬を支払うべきだということになってきています。ある程度は妥当な考え方ですが、行き過ぎると社会は殺伐としたものになってしまいます。

