日本語を扱うことの強みは何か。元内閣府事務次官の松元崇さんは「仮名の創造が、本来意味を持っていた漢字という文字から意味を取り去って、音声が無力な日本語を創り出した。それは、創造性の発揮の究極の姿である『ウソ』の世界を自由に創り出すことを可能にした」という――。
※本稿は、松元崇『武器としての日本語思考』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
「ほら話」の大切さ
英国の認知科学者でウォーリック大学経営大学院のニック・チェイター教授によると、「私たちはみな、ほら話に担がれている」と言います。
「ほら吹きは、自分自身の脳だ。脳という即興のエンジンは驚くほどの性能を誇り、そのときその場で色、物体、記憶、信念、好みを生成し、物語や正当化をすらすらと紡ぎ出す」
「ほら話(中略)のベールは私たちを完全に包みこんで(中略)ベールがそこにあることにすら、私たちは気づけない。(中略)私たちは驚異的なまでに創作力のある臨機応変の推論者、そして創造的な比喩機械であり、散乱した情報の切れ端を溶接して一瞬ごとに整然とした一つの全体を創り出している」
「私たちは思考が『そのときその場の』でっち上げとは思いもしない。前もって形作られた色、物体、記憶、信念、好き嫌いを内なる深海から自分で釣り上げたのだと、そして意識的思考とはその内なる海のきらめく表面にすぎないのだと思い込まされる。だが、心の深みなるものは作り話にすぎない。自分の脳がその場で創り出している虚構なのだ。前もって形成された信念や欲望や好みや意見はないのであり、記憶さえもが、心の底の暗がりに隠れているのではない。(中略)心の奥はない。表面がすべてなのである。つまり脳は、倦むことなき迫真の即興家であり、一瞬また一瞬と心を創り出している」

