常に感情より論理を優先して言動

さらに三成は、朝鮮出兵から敗れて、帰国したばかりの福島正則や加藤清正に対しても、配慮に欠ける言葉をかけてしまいます。

地獄のような戦場を経験し、心身共にボロボロの状態であった彼らに、三成は「ご苦労様でした。国許に帰って休養してください。一年後には茶会でもやりましょう」と声をかけました。

三成としては、決して二人を軽く扱ったつもりはありませんでした。が、内心、自分こそが朝鮮出兵という大規模な計画を立案・実行し、全国に船舶を手配して、朝鮮との往来に遺漏いろうなく、出征将兵や食糧・武器の運搬を果たした。

そして全軍将兵を無事に撤兵させ得た、という自負心があったため、ついそれが言葉使い、表情に出たのかもしれません。

加来耕三『歴史の一流は「師匠」から何を学んだのか』(クロスメディア・パブリッシング)
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しかし、聞かされた帰還の武将たちは激怒しました。

「おまえは日本でぬくぬくとしていたくせに、生命懸けで戦ってきた俺達へのねぎらいが、その程度のものなのか――」

と。これが、人間の偽らざるなまの感情です。

三成は常に感情より論理を優先して言動をしているため、相手の気持ちに気づくのが遅く、場の空気を読むことができませんでした。

こうした三成の態度や言動も、後ろ盾である秀吉の存命中はなんとか保たれ、表面化することはありませんでしたが、秀吉が亡くなった途端に、周囲の不満は一気に三成へと集中して向けられてしまいます。

関ヶ原の戦いでも上から目線に説得する

加藤清正や福島正則などの「武断派ぶだんは」と呼ばれる猛将たちは、三成の屋敷を襲って殺してしまおうと計画するまでにいたりました。

けれども生命を狙われるような目に遭ってさえ、三成はわが身を省みることができませんでした。

彼らの敵意に対しても、「豊臣家の恩を忘れた人間である」「獅子身中しししんちゅうの虫め」といった解釈しかできず、自分に非があるとは微塵みじんも思わなかったのです。

三成は正義は常に豊臣家にあり、それに携わる自分に間違いはない、と思い定め、周りの武将も当然そう思っていると考えていました。長所と同じだけ、短所が存在することを、この英才は自覚していませんでした。

関ヶ原古戦場跡
写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです

そのため諸大名に、関ヶ原の戦いで味方になってもらう際にも、「皆さんも太閤殿下(秀吉)のご恩に報いる時ですよ」と、完全に上から目線と受け取られる説得の仕方をしてしまいました。

その結果、関ヶ原の戦いにおける西軍からは、戦闘を放棄する武将、三成の攻撃命令に従わない武将、さらには裏切って東軍に味方する武将が相次ぐこととなります。