サラリーマンのお手本となる戦国武将は誰か。歴史家・作家の加来耕三さんは「師とも仰ぐ秀長に出会い、元々槍一本だったのに鉄砲隊を命じられ、後には兵站を担当させられたりと、与えられた場所で輝きつづけた武将がいた」という――。
※本稿は、加来耕三『歴史の一流は「師匠」から何を学んだのか』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。
サラリーマンの鑑のような戦国武将
勝海舟や小栗忠順のような、強い目的意識は持っていなくとも、与えられた場所でその都度、新しい師匠に学び、多くの専門性を身につけた戦国武将がいました。
それが、藤堂高虎です。
現代の会社員のように高虎は、部署が変わるたびに一から上司や専門家に学び直し、新しい知識と技術を吸収しつづけました。自分の主君を師匠にして学んだ武将は、織田信長―豊臣秀吉、豊臣秀吉―弟・秀長、織田信長―蒲生氏郷など数多くの組み合わせがありましたが、高虎ほど見事に、幅広く異分野を学びつづけた人物は、他になかなか見当たりません。筆者はサラリーマンの鑑のような人物だ、と常々思ってきました。
もともと高虎には学問がなく、身分も低い国人(地侍)の出自でした。
しかし、身長は1メートル90センチ、体重は113キロもあります。戦国時代にこれだけ立派な体格をしていれば、合戦では目立ち、活躍もできたはず――。
実際、若い頃は槍一筋で出世しようと戦場を駆けまわり、高虎は奮闘しました。
15歳で初陣し、戦場では必ず一番槍を心がけ、負け戦であれば殿軍を務めるなど、人より抜きん出た戦功を立てようと、彼は必死に頑張りました。
――が、その割には高虎は、何度か主を変えています。
主君が気に入らず出奔したり、主君に嫌われて逃げ出したり。10代の後半で近江国湖東の佐和山城主・磯野員昌には八十石、現在の価値にして年収240万円ほどで召し抱えられましたが、高虎は自己評価が高いため、その程度の待遇では納得できませんでした。加えて員昌が信長に寝返って、信長の甥・津田信澄を養子としたのが気に入らず、逃亡。

