築城から水軍まで必死に食らい付く
高虎が次に学んだのは、築城の技術でした。槍働きをしていた時代に、どういう城が守りやすく、攻めにくいかは体験しています。
さらに算盤の知識も身につけたので、城を設計する際の計算も得意になっていました。そのうえ、鉄砲隊を指揮した経験から、攻城方の鉄砲の使い方も習得しており、築城の大いなる参考となりました。
これまで培った技術を統合して、築城術に熟達した高虎は、秀吉の死後、徳川家康から主な徳川方の城の縄張りを任されるようになります。江戸城の改修の際には、天守の築造や二の丸・三の丸の増築を高虎は任されたほどです。
52歳で秀長が病死してのち、高虎は羽柴(のち豊臣)秀吉に直接、仕えることになりますが、秀吉もまた高虎の器量を見込んで重大な任務を任せました。
今度は水軍です。またも未知の領域でしたが、高虎は必死に食らい付きました。
高虎が偉かったのは、どれだけ出世しても、年をとっても、一から謙虚に学ぶことを、“楽しい”と受け取る精神の若さでした。
誰でも身分が低いときや若いときは、必死で勉強しても、出世するにつれて機動力は鈍くなるものですが、水軍を任せる、といわれたときも、高虎は船の構造から建造方法、操船の技術、船隊の組み方まで、徹底的に初歩から学びました。
そして朝鮮出兵の際には、日本水軍が朝鮮水軍に苦戦する中で、味方の水軍を救出する活躍をみせています。結果を、ここでも出したのです。
忍びの集団を編成し、束ねる
朝鮮出兵の後、高虎は秀吉が亡くなってからは家康に仕えました。すでに、人を見る目は養われています。「次の天下人は徳川殿――」。
その家康から与えられた新たな任務は、伊賀上野(現・三重県伊賀市)で忍びの集団を編成し、彼らを束ねることでした。
当時、大坂城には秀吉の遺児である秀頼が居城しており、豊臣恩顧の大名も多くが健在でした。彼らの事情を知るためにも、忍びの集団を手なずけることは重要任務だったのです。
しかし、忍びは腕に覚えのある者たちの集まりですから、新しい主君が突然やって来ても、すんなりとその人のいうことを聞くことはありません。
そこで高虎は、まず忍び集団の頭領級を全員、家臣として召し抱えました。
定期的に給金が支払われ、生活が安定すれば、彼らはその日々を守ろうとするはずだ、と高虎は考えたのです。
ただし、同時に彼らの妻子を城下町に住まわせることを条件としました。これは人質の意味もあり、藤堂家を裏切らない限り、こちらもおまえたちの面倒はしっかりと見る、というわけです。こうして高虎は、上手に彼らを手なずけていきました。

