一番槍から足軽が扱う鉄砲隊の組頭へ
そうした何度目かの転職を経て、秀吉が近江・長浜の城主となった時期に、秀吉の弟である秀長に出会います。羽柴家のナンバー2として兄を補佐していた秀長(当時は小一郎長秀)との出会いが、高虎の人生を切り開き、飛躍させることになりました。
やがて師とも仰ぐ秀長が、高虎に提示した年俸は一千石でした。自分を高く評価してくれた秀長に対して、高虎は心から感謝したことでしょう。ところが秀長から与えられる指示に、高虎はこの先、くり返し戸惑うことになります。
なにしろ得意の槍ではなく、まずは「鉄砲隊の組頭をやれ」と命じられたのです。
当時は鉄砲といえば足軽が扱う武器であり、戦場の花形は槍働きでした。
腕に覚えのある武将であれば、己れの面子にかけて、この未知なる鉄砲働きを拒否したに違いありません。
けれども高虎は、秀長の指示に従いました。
高虎は主君の秀長が自分の可能性を見込んでくれたからこそ、経験したことのない役目をあえて与えてくれたのだ、と考えたのです。
そこで鉄砲について、一から勉強を始め、火薬の詰め方から弾の撃ち方まで、ひと通りの技能を身につけ、さらにはこの新兵器を組頭としてどのように戦場で活用すればいいのか、を考えるまでになりました。
地味な裏方の能力も身につけなさい
ようやく鉄砲隊を率いての実戦に、自信が持てるようになり、成果もあがるようになりますと、秀長は唐突に、高虎にさらなる試練を与えます。
「次の合戦では兵站を担当せよ」というのです。兵站とは武器や食料の補給係――いわば、裏方です。
現代でいえば、営業のトップだった人物が、事務を処理する総務に回されるようなものでしょうか。左遷されたと感じて、高虎が「やってられない」と辞めても、おかしくない人事でした。
しかし、彼は辞めませんでした。それどころか、秀長にいわれた通りに、今度は一から算盤を学び、算術を習得し、与えられた仕事をまっとうします。その結果、槍働きに加えて鉄砲や兵站の知識・実務まで身につけることになりました。
実は上司である秀長は、高虎を将来の家老ともなれる人材と見込んでいたのです。
大きくなっていく羽柴家を動かす立場になれば、槍働き以外のことは知らない、ではつとまりません。戦国の軍団戦に必要な、多くのことを学ばせなければならない、と秀長は考えていたのです。それは自らが「師」とした兄の秀吉から学んだ、自らの教訓、反省した手順でもあったのです。
素直に秀長の指示に従った高虎もたいしたものですが、それ以上に秀長の師としての態度には驚かされます。
現代の企業でも、幹部候補生には営業の現場から人事、宣伝などまったく異質な各部署を経験させるものですが、秀長はこの時代にすでに、現代と変わらない感覚で、人材育成を行っていたのです。これは秀長の師匠としての指導方針が、いかに新しく、的確であったかを知る挿話といえるでしょう。

