読んだ人が喜ぶように工夫をこらした手紙
一方で、人を押しのけても、前に前に出る自分の性格、思ったことは口にしてしまう性格の長所・欠点も自覚していました。
そのため秀吉は、格下の相手に対しても「あなたのおかげで今の私がいる」と事あるごとに感謝を言葉にして伝え、頻繁に手紙や品物を贈る行為をつづけていました。
手紙には相手を褒める言葉だけでなく、ときには自虐や諧謔も交え、読んだ人が喜ぶように工夫を凝らし、性格に応じて書き方を変えてもいたのです。
この秀吉の気くばりは、現代でも通用するに違いありません。
「あの人からのメールは、読むと元気が出る」と思ってもらえれば、信頼関係がますます構築され、いざというときに力を貸してもらえることにつながります。
一方で三成は、理屈を並べて道理を説き、正しいことを言っていれば相手は従うものだ、と思い込んでいました。三成がそう考えてしまった背景には、彼が育った環境も影響していたか、と思います。
10代だった三成が秀吉に出会い、召し抱えられたのは、秀吉が北近江三郡(現・滋賀県北部)の領主となった近江・長浜城主時代でした。
当然のごとく三成は、秀吉が織田家の小者から足軽、部将へと苦労して城の主となった過程を、見ていませんでした。
師匠の強み、極意を学ぶ機会を逸した
秀吉と共に、辛酸を嘗めながら這い上がってきた弟の秀長(当初は小一郎、長秀)とは異なり、三成は織田家や羽柴家(のち豊臣家)の中枢で、すでにある程度整った、秀吉の地位、環境の中で仕官生活をスタートさせています。
とくに秀吉が短期間(約8年)で天下を取ってからは、その側近中の側近である三成に、逆らおうとする人間はほとんどおらず、自分の主張や意見がすんなりと通る状況がつづきました。
その結果、三成は政治は理想を掲げ、大義名分を主張するだけで動かせるとの価値観を持ってしまい、天下人となることで見えにくくなっていた師匠の強み、極意を学ぶ機会を逸してしまいました。
周囲は自分を、虎の威を借る狐としてしかみていない、という側面に気がつかなかったのです。あるいは気づいていても、たいしたことではない、と割り切って結論づけてしまっていたように思われます。

