1985年、「労働組合日本プロ野球選手会」が設立された。設立の中心人物で初代会長は、元巨人の中畑清氏。それまでのプロ野球選手は、球団側に搾取され続けていた。

「球団を選ぶ自由もないうえに、肖像権は日本野球機構や球団に一括管理され、要望も一切聞き入れられない。選手が唯一行使できる権利は、辞めることだけでした」

そう語るジャーナリスト・木村元彦氏は、中畑氏が理路整然と語る選手会設立の過程に心を動かされた。そして、中畑氏を筆頭に歴代の選手会会長や選手会労組を縁の下で支えた人々の闘いの記録を紡ぎ出した。

2004年、近鉄がオリックスと合併。低迷するパ・リーグを4球団に減らし、1リーグ制にするという球界再編の動きが進み始めた。

当時の古田敦也選手会会長は、「球団が一つ消滅すれば一度に70人以上の選手が職を失う」と反対を表明。東京高等裁判所の裁判長による「名判決」も追い風となり、「たかが選手が」という読売・渡邉恒雄氏の侮辱に対峙し、ストライキを断行する。結果、2リーグ12球団制は守られた。

「今日のプロ野球の隆盛は、あのストを決行したからだと言えます。あのまま8チーム1リーグ制に舵を切っていたら、今頃プロ野球全体が廃れていたと思います」

11年の東日本大震災と福島第一原発の事故を受けて、パ・リーグは3月25日の開幕予定日を4月12日に延期した。だがセ・リーグは、「企業の経済活動」を謳い予定通り3月25日開幕を表明した。選手会は、開幕延期を求め、新井貴浩会長が奔走する。選手会の声は世論を猛烈に動かし、セ・リーグの開幕延期が決まる。

木村元彦『労組日本プロ野球選手会をつくった男たち』
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さらに新井会長は同年、2年後に控えたWBCの開催のあり方に異を唱えた。東京ラウンドでの収益金のほとんどが米国メジャーリーグ側に吸い上げられる不平等条約。「この規定が是正されるまでは日本チームは出場しない」と表明。1年近くにわたる協議の末、「日本代表のスポンサー権やグッズの権利を日本側に認める」確約を勝ち取る。

「アスリートは政治的なことに声をあげるなと言われるけれど、当事者が声をあげることの大切さを伝えたかった」

今の若い選手には「メリットを感じない」と、選手会に入らない人も多いという。

(インタビュー・文=編集部 撮影=増田岳二)

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