なぜ豊臣秀吉は天下をとれたのか。歴史作家の河合敦さんは「要因の一つに、数多くの有能な武将をスカウトしたことがあげられる。そこには、秀吉らしい時流の読みと、巧妙な人心掌握があった」という――。(第1回)

※本稿は、河合敦『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

狩野光信画 豊臣秀吉像
狩野光信画 豊臣秀吉像(写真=南化玄興賛 高台寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉が優秀な人材を集めた意外な方法

戦国武将のなかで、最も多くの勇将をスカウトしたのは、間違いなく豊臣秀吉であろう。庶民出身ゆえ、織田信長や徳川家康のように譜代(代々、臣下として一つの主家に仕える家系)の家臣を持たない秀吉は、一から家臣団をつくらなければならなかった。

長浜(滋賀県長浜市)城主になった頃から、秀吉は家族だけでなく親戚、さらに妻・ねねの一族まで、かたっぱしから家臣に取り立てていった。豊臣政権を樹立する頃には、彼らはいずれも自身の領地を持ち、大名へと成り上がっていた。だが、それでも部下が足りない。そこで手っ取り早く、諸大名の家臣団から有能な人材をスカウトしたのである。

有名なのが、軍師の竹中半兵衛を迎えたときの逸話。劉備玄徳が諸葛孔明を迎えるに際し「三顧の礼」をもってした『三国志』の故事にちなみ、たびたび半兵衛のもとを訪ねては、部下になってほしいと懇願し、了承させたという。ただ、これは後世の『太閤記』などに出てくる話なので、信憑性に欠ける。

ライバル家康の忠臣を強奪

史実として有名なのは、家康の重臣・石川数正の例だ。天正13年(1585)11月13日、岡崎城(愛知県岡崎市)代(留守居)の数正が城から出奔し、秀吉のもとへと走った。石川氏は有力な徳川の譜代大名であり、数正は西三河(現在の愛知県中部)の旗頭、すなわち徳川正規軍の片翼を担う最高司令官だった。しかも、かつて織田・徳川同盟の締結に尽力し、今川家の人質になっていた松平信康(家康の長男)を取り戻し、長篠の戦いで織田軍の支援を取りつけた人物。まさに徳川一の功臣だった。

翌日、家康は岡崎城へ駆けつけたが、すでに数正は妻子や家臣を連れて逃げたあとで、城はもぬけの殻だった。家康の動揺は激しく、不安だったのだろう、最前線の信州小諸(長野県小諸市)を守っていた大久保忠世に、すぐに戻るよう催促している。

重臣の水野忠重も時を同じくして徳川家を去り、秀吉に臣従している。数正と示し合わせての行動だった。