秀吉の策略の可能性も
小牧・長久手の戦いで激突して以来、形式的な和議を結んだとはいえ、徳川家康は豊臣秀吉に反目して上洛要請に応じず、冷戦状態が続いていた。そんなおりに秀吉が石川数正らを引き抜いたのだ。数正は徳川の軍法を熟知していたので、憂えた家康は、武信玄の旧臣を召して軍法を武田流に改めざるを得なかった。
数正が秀吉のもとへ走った理由はよくわからないが、一ついえることは、秀吉に接する機会が最も多かった徳川家臣が数正だったことだ。
賤ヶ岳の戦いの勝利を祝う家康の代理として訪ねたのも、小牧・長久手の戦い後の講和交渉を担当したのも数正だった。だから、秀吉の魅力と偉大さは身に染みて感じていたはず。そのため数正は、家康に上洛して臣従するよう説いたらしい。
しかし、家康はこれを拒み続けた。そのうち数正は、同僚たちから「豊臣に通じているのではないか」と疑いの目で見られるようになった。しかも、その噂を耳にした秀吉が、わざと公の場で数正の人としての器を褒め称え、十万石を与えても惜しくはないと、声高に語ったという。
こうして肩身が狭くなった数正は、家康を見限り、秀吉を頼らざるを得なくなったのだろう。これが秀吉の策略だったとしたら恐ろしい。
123万石→4万石にして家臣を奪う
有能な人材を手に入れるため、豊臣秀吉は非情な手段を使うことも多かった。本能寺の変後、織田家の宿老・丹羽長秀は秀吉に味方してくれたので、これに報いるため越前(現在の福井県北東部)・若狭(現在の福井県南西部)・加賀(現在の石川県南部)など合わせて百二十三万石の支配を認めた。
だが天正13年(1585)に長秀が死去し、14歳の長重が家督を相続すると、秀吉はさまざまな難癖をつけて次々と長重の領地を削り、とうとう四万石にまで転落させた。しかもその間、丹羽氏の重臣である長束正家、戸田勝成、溝口秀勝、村上頼勝、上田重安などを自分の家来にしてしまったのである。なんともえげつないスカウト方法だ。
ところで、秀吉にスカウトされた石川数正だが、彼は八万石の大名に抜擢され、さらに十万石に加増されたという。このように秀吉の場合、“移籍”後の待遇が破格だったから、なかには自分から主家を乗り換えて豊臣に仕えた武将も多い。
たとえば、筑後柳川(現在の福岡県柳川市)城主・立花宗茂は大友氏の家臣だったし、黒田官兵衛は小寺政職の重臣だった。島津義久の一門だった伊集院忠棟も秀吉に臣属している。

