「政権を安定させる」スカウトとは

彼らを、倫理観のない卑怯者だと見るのは間違いだ。繰り返しになるが、「二君に仕えず」といった武士道は、藩主の絶対制が確立した江戸時代に確立した考え方。戦国時代は下剋上の世であり、無能な主君であれば家臣は容赦なく見限ったし、あるいはこれに取って代わった。

もちろん、良い奉公先へ移ることは珍しい話でも、非難される行為でもなかった。ひとかどの武将たるものは皆、現実に満足せず、己を最大に評価し、活かし切ってくれる主君の存在を探していたのである。極言すれば、その機微をよく把握していたからこそ、秀吉は天下人になれたともいえるのだ。

なお、秀吉は天下人になった頃から、他大名の重臣たちをスカウトするふりをして自らの政権を安定させるという、なかなか手の込んだ手法を用いるようになっている。

その対象になったのは、徳川家康の家臣である本多忠勝や大久保忠世、伊達政宗の重臣・片倉小十郎景綱、上杉景勝の参謀・直江兼続、島津義久の猛将・新納忠元、細川藤孝の一門格・松井康之らである。

秀吉の口説き文句

秀吉は堂々と彼らに「家臣にならないか」と勧誘しているのだ。皆、申し出を固辞するが、天下人に声をかけられたということは、逸材と認定されたことを意味する。当然うれしいだろうし、秀吉に対して好感を抱くことになる。つまり、諸大名家の支柱たる人物を籠絡し、敵中に味方をつくり、自らの政権を維持しようとしたのだ。

河合敦『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(ポプラ新書)
河合敦『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(ポプラ新書)

たとえば秀吉は、家康を東海地方から関東へ移封した際、「大久保忠世は勇将だから四万五千石を与えて小田原城を守らせよ」と命じている。また、上杉景勝を会津(現在の福島県西部)百二十万石に加増移封したおり、「直江兼続に米沢(現在の山形県南部)三十万石の地を与えろ」と述べた。このように他家の人事に干渉してまでも、大名の重臣を優遇したのである。

そこまで自分を買ってくれた人間に、感謝しないはずがない。事実、兼続は秀吉亡きあと、豊臣家を守るために家康と敵対するよう、上杉家を誘導している。

まことに巧妙な、秀吉の人心掌握術といえよう。

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