利家の長男は信長の娘と結婚
利家の長男・前田利長は織田信長の娘・永姫と結婚。慶長3年(1600)、浅井畷の戦い、“北陸版”関ヶ原の合戦での働きが認められ、徳川家から119万2700石(約120万石)に加増された。ただ、利長夫妻には子がなかった。利長は主君の娘をもらったので、側室を設けなかったようだ。利長には多くの兄弟がおり、同母弟もいたのだが、異母弟の前田利常を養子とした。
利常は側室の子として生まれ、越中の姉夫婦に育てられた。父・利家とは一度しか会ったことがなく、兄・利長ともしばらく対面する機会がなかったという。しかも、“北陸版”関ヶ原の合戦の後、加賀小松城(石川県小松市)の丹羽家と前田家が和議を結ぶと、利常は人質として丹羽家に預けられてしまう。
丹羽家の当主は丹羽長秀の子・丹羽長重だ。長重は利常の非凡さを見抜き、自ら梨の皮をむいて与えるほど可愛がり、「利長公はまだ若くて、これから子どももできるだろうけれど、お前さんは何があっても最後には、(加賀、能登、越中)三カ国を手にするだろう」と語ったという。
利長は優秀な異母弟を養子に
利常は人質から戻ってきた後も冷遇されたままだったが、あるとき、前田一門・家臣団の子どもたちが能見物で集まった際、実兄・利長と初めて対面する。前田利家が人並み外れた大男だったと先述したが、その体格は利常に最も遺伝していたらしい。しかも、目が大きく、眼光の鋭さは群を抜いていた。利長は初対面で利常の非凡さを見抜いて養子にした。
利常は徳川秀忠の娘・珠姫と結婚。以後、前田家は徳川家と婚姻を重ねることが多く、東京大学の赤門は、11代将軍・徳川家斉の娘である溶姫が輿入れした時に建てたものだ。将軍家の娘が嫁いだ家は、赤門を建てて歓迎し、その妻が死去すると破却するしきたりがあった。ところが、溶姫は明治維新後も生きながらえたので、破却することなく現在まで続いたという。


