信長の親衛隊の筆頭となり出世
利家は永禄2(1559)年頃に信長の同朋衆・十阿弥といざこざを起こした果てに斬殺し、信長の逆鱗に触れて出奔を余儀なくされる。桶狭間の合戦、森部合戦にひそかに参陣し、武功をあげて帰参を赦された。
父・利昌は2000貫文(のち2300貫文)の所領を持っていたが、利家はそれと別に50貫文の所領を与えられ、萱津合戦、稲生合戦、浮野合戦で武功を挙げ、150貫文に加増されている。信長の親衛隊ともいえる赤母衣衆の筆頭に列し、永禄12(1569)年の伊勢大河内城攻めの後、信長の命で利家が家督を継ぎ、計2450貫文を領したという。
利家は、天正3(1575)年5月の長篠の合戦では佐々成政とともに鉄砲奉行を務め、同年8月に柴田勝家が越前を与えられると、佐々成政・不破光治とともに「府中三人衆」として越前二郡を与えられた。勝家のお目付役という訳だ。天正8(1580)年、柴田勝家等とともに加賀を平定。翌天正9年に能登一国を与えられ、七尾城城主となる。天正10(1582)年3月、勝家の富山城攻めに従い、そこで本能寺の変の報を聞く。
豪快な性格で、誰からも愛された
利家は人並み外れて体格がよく、「槍の又左」と称された豪傑タイプで、誰からも愛された。上司の勝家、親友の秀吉が対立するとその板挟みとなり、去就に悩ませられるが、天正11(1583)年の賤ヶ岳の合戦で、勝家は利家が秀吉に着くことを許したという。
秀吉の信認を得た利家は、徳川家康と並んで秀吉政権の最長老となり、家族合わせて76万5000石を領し、加賀100万石の基礎を築いた。
秀吉が天下を治めると、前田利家は「五大老」の一人に選ばれ、豊臣政権の重鎮となる。他の4人は生まれながらにして多くの家臣を抱えた国衆・戦国大名で、槍一本でここまで出世したのは利家のみ。そんなこともあって、加藤清正・福島正則など「槍一本」派の豊臣家臣からの人望が篤かった。
しかし、慶長3(1598)年に秀吉が死ぬと、その後を追うように翌慶長4年(1599)閏3月に死去した。おそらく秀吉にとって、幼い秀頼の行く末を託した利家の早すぎる死が一番の誤算だったであろう。


