教育格差や投票行動にも影響を与えている

近年の東京圏での教育にかんする話題では、中学受験のことが多い。しかし、どの沿線に私立や国立、あるいは公立の中高一貫校が多いかということを考えると、じつは特定の地域に限られた話であるといえる。

さらにいえば、東京圏の大学進学率は全国平均よりも高い一方、高卒で社会に出る人もまた多い。このあたり、個人の価値観の問題であるといえばそれまでだ。だが単に「個人の価値観」と割り切っていいものなのだろうか。

経済的に豊かな層が多い沿線と、そうでもない沿線がある。大卒層の多い沿線もあれば、そうではない沿線もある。沿線にSAPIXが多くある場合もあれば、中学受験塾が多くない沿線もある。政治的に左派・リベラル派の議員が当選し、地方議会で活躍できる地域もあれば、そうでもない地域ももちろんある。部数トップの「読売新聞」よりも、「朝日新聞」が読まれる沿線もあるのだ。

沿線の経済状況はどうか、そこにはどんな人たちが暮らしているかということは、個人の価値観や行動にも影響を与えると筆者は考える。人はみな、価値観が同じか、ある程度近い人たちとともに暮らしたがる。それが「沿線格差」に結びつくことになっていく。

鉄道会社が作り出した“住民像”も読み取れる

そこで出る疑問は、「個人の意識だけで、これほど『沿線の違い』というものができるものなのだろうか」ということだ。

もちろん、鉄道会社は「沿線」をプロデュースすることに熱心だ。しかし、鉄道会社が提示する「沿線」の価値観を、住民が内面化し、沿線全体で共有することになっているとは考えられないだろうか。しかも、鉄道会社は、どんな人が自社沿線にふさわしいかそれとなく示していて、そこに自社の考える住民像にふさわしい人を住まわせるようにして、沿線意識をつくり出そうとしていると見ることもいなめないはずである。

ここまで考えていくと、何が人々の価値観を定めるのか、ということは環境の要因も大きいと見ていいだろう。そのなかで「沿線」というものが地域住民の価値観に大きく影響しているという考えは妥当性のあるものではないだろうか。

「沿線」というものが、単に鉄道路線を示したものだけではないことは、ここまで本稿を読まれた方は承知しているかと考える。地域があり、そこに人々がいて、経済生活を送り、消費活動や文化的活動を行う。その営みすべてが、「沿線文化」といっていい。とくに、そこに暮らす人たちがどう収入を得ているかや、どんなところで暮らしているか、どんな最終学歴となっているかは、その「沿線文化」の基礎となるものである。