「沿線格差」は子供にも引き継がれていく

地理的にどんな場所であるかも重要だ。地盤が固いかどうか、ある程度標高が高いかどうかも、「沿線」の価値を決めるものである。

個人の価値観は、個人だけで簡単に決められるものではなく、個人の能力も自力のみで獲得できるものではない。個々人の「能力」はその人が置かれた環境により花開き、現実には花開かなかった能力、さらにはつぶされてしまった能力というのも多々ある。同様に、ある沿線で高く評価される価値観や能力があれば、そうではない価値観や能力もある。個人の価値観や能力を決める環境的要因のなかで、「沿線」というのは非常に大きなものである。

もっといってしまえば、「沿線が個人を規定する」と考えることもできる。沿線という大括りの枠組みが可能である以上、個人の形成における沿線の役割は、けっして小さくないのである。

親が高所得なら子も高所得、親が高学歴なら子も高学歴という社会にこの国がなってから長い。階級や階層といったものが、かなりの割合で再生産されるという状況が続いている。政界や経済界、芸能界といったところから、法曹界や医者の世界でも「二世」が目立ち、一般には知られていないが学術の世界でも「二世」が目立つようになった。

細かいレベルまで、子が親の存在をロールモデルにし、親の存在が子の存在を規定する社会において、沿線で暮らすというライフスタイルも再生産されることになる。そうなると、「沿線格差」が「沿線格差」を再生産することになるのだ。

沿線ごとのライフスタイルが確立されている

たとえば、東急電鉄沿線にはわかりやすいライフスタイルがある。住宅地に暮らし、都心へと通う、両親とも大卒のファミリー層というものだ。このあたりの人は、自らが生まれ育った環境を肯定的に考えている。他者に比べて明らかにおとった環境にいることに危機感を抱いて、難関大学への合格をめざす、というタイプは、そもそも現在では多くないのだ。

東急電鉄沿線に暮らすようなタイプの人たちは、中学受験が盛んであり、その層は必ずブランド力のある大学に子どもが進学することを望む。家庭内には、みずから培ってきた勉強のノウハウが多く蓄積ちくせきされており、そのノウハウを子どもに受け継がせる。文化的活動も子どもに惜しげなく注ぎこむ。そして、子も同じ沿線に暮らすようになる。つまり、その子どもにとっての地元は、いつか脱出したい地域ではなく、いつまでも住んでいたい地域ということになる。

沿線ごとに、ライフスタイルの違いというものはある。その違いは、「格差」につながる。もちろん、不平等なものだ。沿線ごとに所得水準や最終学歴が異なり、進学塾や中高一貫校の所在地にかたよりがあり、消費活動や進学行動にも差がある。そのような沿線事情を背景に、人の意識の差が生まれる。それは自己肯定感の高さ・低さにもつながっていく。