一体だれにとって「重要な試合」なのか

去る6月4日の夜、サッカー日本代表がワールドカップ出場を決めた直後から、渋谷のスクランブル交差点では立ち入り制限が行われていた。勝利に歓喜したサポーターたちのお祭り騒ぎを抑止するためだ。当日、巧みな話術でサポーターを誘導した警察官はネット上で「DJポリス」と呼ばれて絶賛され、1週間ほど後に警視総監賞を贈られることになった。

いずれも喜ぶべきニュースなのだろう。だが私たちがここから読み取らなければならないのは、その日の夜の熱狂は一歩間違えば大変なことになる恐れがあり、それを御するのに成功するというのは、警視総監賞ものの栄誉だったということだ。言い換えれば、全体からすれば一部であるとはいえ、サポーターたちのお祭り騒ぎは厳戒態勢と専門的なスキルをもって対処しなければならないレベルのリスクを有するものになってしまったのだ。

一体どうしてこのようなことが起きたのだろうか。興味深い点は、こうした振る舞いが主に日本代表戦の際に見られるということだ。欧州のフーリガンが、社会に根強く残る階級の問題や、マスメディアによる煽りといった要因と絡み合いながら社会問題化していったのに対し、日本のサポーターに見られるそれは、単に騒ぎたいだけの若者が集まっているだけのようにも見える。