※本稿は、安田峰俊『中国ぎらいのための中国史』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
中国庶民が望む“帝王像”に合致していた毛沢東
毛沢東(1893〜1976年)の人生について、多くを説明する必要はないだろう。彼は1921年に結成された中国共産党の初期メンバーの一人で、やがて1935年の遵義会議で党の実権を掌握、長征と抗日戦争・国共内戦を戦い抜いて1949年10月に中華人民共和国を建国した。
ただ、建国後の毛沢東は絶大な権威こそ持ち続けたものの、急激な社会主義建設を目指して経済政策に失敗し、政治的な実権が低下。しかし1966年に発動した文化大革命によってナンバー2だった劉少奇ら党幹部を多数失脚させ、その後は死ぬまで最高権力者として君臨した。
中国の伝統的な農民反乱をモデルにした「農村から都市を包囲する」革命戦略や、弱者が強者に勝つための遊撃戦論は、現在でも世界各国の反政府ゲリラたちのお手本である。また、毛沢東の福々しい外見や、地方視察時に見せた(かに見える)気さくで泥臭いキャラクターは、いずれも中国の庶民が望む帝王像と合致していた。
改革開放路線のなかで“毛思想”が復権
だが、やがて改革開放政策のなかで資本主義を認めた中国共産党は、やがて統治の正当性の揺らぎに直面する。共産主義への道をほぼ放棄し、党国一致の一党専制体制だけを残す「共産党」に、人民を統治する資格はあるのかという当然の疑問が生じたのだ。
そのためゼロ年代からは、現状を問題視した人たちの間で、中国の将来についてさまざまな思想が議論されるようになった。政治の民主化を求めるリベラル派や、儒教国家の建設を唱える新儒家などが、百家争鳴の論争を繰り広げていた時期である。そのなかには、毛沢東時代を懐かしむ復古主義的な主張も含まれていた。
これは当初はキワモノ的な扱いを受けたが、社会矛盾が拡大するにつれて徐々に力を持ちはじめる。