通貨危機で撤退の瀬戸際

川嵜は第一工場の隣接地に、1600平方メートルの工場建設を決断。97年春に建屋の建設が始まる。ところが、同年7月、タイバーツが暴落。アジア通貨危機が会社を直撃するのだ。11月の第二工場の竣工式の時点で、第一工場の稼働はそれまでの4分の1以下になっていた。竣工式では建屋の高い天井を川嵜は暗澹たる思いで見上げた。

天井を高くしてクレーンを設置したり、穴を掘って設備を据えたり、特殊な建屋をした寝屋川工場の内部。

同業者や取引先の知り合いは、「修ちゃん、大変やなぁ」と、ニヤニヤしながら彼に声を掛ける。「調子に乗るさかいに」という嘲笑を川嵜は背中に感じていた。莫大な投資をして尻尾を丸めて帰るわけにはいかん。現地の従業員も育っているやないか。タイ工場の継続は決めていた。が、経営のトップとして眠れぬ夜は続いた。

いったいいつになったらこの危機は収まるんや……、タイに進出した同業他社はすでに撤退を決断した。先が見えない。

「マレーシアは撤退に向けて作業を始めよう」、川嵜はマレーシア工場の責任者に伝えた。と、40代の実直な男はボロボロッと涙を流し、「社長、撤退だけは堪忍してほしい」と訴える。責任者は現地で育てたマレーシア人スタッフが可愛いのだ。元来、情に濃い川嵜は、もらい涙をグッと堪え、「ほな、経費削減はもちろん、お客さんを探して走り回れ!」と、語尾を強く言い放った。

90年代後半、東南アジアは日系企業の進出途上にあり、赴任した日本人社員たちの間には、開拓農民にも似た同志的連帯感があった。「うまい日本食が食いたいな」「いい日本料理屋を教えてやるで」「いい歯医者知らんか」「あそこなら日本語が通じる」など、発注先や受注側の垣根を越えてお互いに助け合い、仲間意識が高まった。

配転で帰国しても、心安い相手に仕事を発注する。東南アジアに進出してからは中京、関東地区に得意先が広がり、国内の仕事量も増えていった。

こらブーメラン効果や、海外に投げたものが日本で戻ってくる。予期せぬ仕事の受注に、川嵜はブーメラン効果と名付け、ニンマリとした。

通貨危機も癒えた2002年、マレーシア工場での日系の大手家電メーカーの仕事が具体化する。耐摩耗性を高めるため、コンプレッサーの重要部品に、極薄の被膜を施す仕事だ。薄膜形成処理は表面硬化熱処理と共に、東研の柱となる技術である。

「コーティングの設備投資が必要です」「売り上げが倍近くになる。やらない手はないやろ」

現地の責任者と川嵜の間で、そんな話が取り交わされる。

「海外進出にリスクは付き物ですが、うちは幸い、まだ国内の景気がよかった。軸足がちゃんとしていたから、踏ん張ることができました」(川嵜)

国内の業績は好調だし含み資産も十分だ。金融機関も融資に躊躇はない。約1億5000万円の投資で設備を整え、大手家電メーカーに応えると、信用につながった。これまで取引がなかった大手家電メーカーから、国内の東研に仕事が舞い込む。

マレーシアに少し遅れ、業績の回復が見えてきたタイでも、エポックメーキングな出来事が進行している。ある日、中年の男性が現地の工場を訪れる。名刺には日系の大手自動車関連メーカーの企業名があった。