東洋大姫路高校野球部で指揮を執る岡田龍生監督は、履正社高校の監督時代、部員の1人を叩いて6カ月間の謹慎処分を受けた。自身が高校球児だった際に受けた「イヤな指導」をなぜ監督として行ってしまったのか。スポーツライターの大利実さんの著書『甲子園優勝監督の失敗学』(KADOKAWA)より、一部を紹介しよう――。

「何でどつかれるねん」が「どつかなあかん」へ

「どつかなあかん、厳しい練習をせなあかん、休みなんか与えとったらあかん」

当時の岡田監督の心理を、端的に表した言葉であろう。

岡田龍生さん
2019年8月22日、全国高校野球選手権大会で初優勝した履正社高監督の岡田龍生さん(写真=共同通信社)

だが、二十数年前、自身が高校生のときは真逆のことを思っていた。

「何でどつかれるねん、何でこんなに厳しい練習をせなあかんねん、たまには休みをくれや……!」

大阪市出身の岡田監督。小学生のときは野球をやっていたが、中学では野球部とバレーボール部をかけ持ちし、2年生に上がるときにはバレーボールのほうが面白くなり、野球部を退部。3年時にはキャプテン、エースアタッカーとして活躍した。

高校でもバレーボールを続けるつもりだったが、信頼を寄せていた中学の先生から、「高校でやるには身長が足りない。バレーはあきらめて、もう一度、野球をやったらどうだ?」と言われ、野球に戻ることを決めた。

ところが、大阪で「私学七強」(興国、明星、PL学園、浪商、北陽、近大付、大鉄)と呼ばれた学校は、どこもスポーツ推薦でなければ、満足に練習ができず、メンバーにも入れない状況だった。バレーボール部に所属していたため、野球の実績は何もなく、推薦がもらえるはずもない。たまたま、知り合いが東洋大姫路を紹介してくれることになり、一般入試で府外の強豪に入学することになった。

毎日「もう辞める」と電話するほどつらい練習

当時の東洋大姫路は、梅谷馨監督の指導のもと、猛練習で鍛え上げた守備と走塁を中心にしたソツのない野球で甲子園常連校となっていた。1969年夏に初出場を遂げると、1972年から74年まで夏の兵庫大会を3連覇。1976年のセンバツでベスト4まで勝ち上がると、1977年、岡田監督が入学した年の夏に全国制覇を成し遂げた。

「強い学校とはわかっていたので、『甲子園に出られるかもしれない』ぐらいの気持ちで、入部しました。ただ、大阪から来たこともあって、練習の雰囲気などはまったく知らず……。最初は、『とんでもない学校に来たな』と思いました。もう、無茶苦茶なことがたくさんあって。入学してから、ほぼ毎日のように『もう辞めて帰るわ』って母親に電話していました」