罵声や暴力に耐えた者だけがレギュラーになれる世界

当時の東洋大姫路は、県内でもトップクラスの厳しい練習で有名で、部員の半分以上が途中で辞めるような状況だった。指導者や先輩から罵声が飛ぶのも、叩かれるのも当たり前。それを耐えて、乗り越えたものが、レギュラーとして活躍できた。

東洋大姫路だけではないだろう。当時は似たようなことが、全国さまざまな学校で起こっていたと容易に想像できる。

「当時、高野連に報告される不祥事は年間で数件だったと思います。そもそも、報告が上がらない。親も選手もどこかで、“高校野球はそれが当たり前”という気持ちがあったんでしょう。それに、指導者の多くは教員であって、あのときの時代背景を考えると、『教員=大学を卒業した偉い人』という考えがあって、『先生がやっていることだから、正しいこと。偉い先生にうちの息子をお任せします』という風潮があったんじゃないですか。大学を出ている親が、今と比べれば少ない時代でしたからね」

「辞めたい、辞めたい」と日々思いながらも、「辞めます」と言い出す勇気もなく、2年生の新チームからはキャプテンを務め、3年春にはセンバツに出場することができた。練習量だけは、他校に負けない自信があった。

開き直らないと生きていけない

高校3年間の指導を、「アメとムチではなく、ムチ100パーセント」と語る岡田監督。とてもわかりやすい表現だ。指導者から褒められた記憶がない。

あえて聞いてみるが……、この3年間で得たものとは何なのか。

「開き直ることの大事さですかね。怒鳴られて、どつかれてばかりいたんで、もうあるときに開き直ったんですよ。怒られへんようにやろう、どつかれへんようにプレーしようと思うこと自体が消極的で、そんな気持ちでやっていたら、ミスが出て当たり前。相手と戦わずに、ベンチと戦っている状態ですから。何をしても怒られるのなら、思い切ってプレーをしたほうがええやろうって」

3年生になってからは、一番打者を任されることが増えた。東洋大姫路の攻撃の掟は、「球数を投げさせて、ピッチャーを疲れさせる」。初球から打つことはご法度だった。

「1球でアウトになったら、どつかれていたんです。だから、1ストライク目は必ず見逃す。そこからの勝負でした。もう開き直るしかないですよ」

根性がなければ、生き抜けない世界だろう。

「勝利に対する執着心や執念、あとは気合いと根性、それは間違いなく養われました。あえて挙げれば、昔の指導法の良いところなのかなと思います」