履正社を甲子園常連校に育て上げた
卒業後に進んだ日本体育大は、180度違うスタイルだった。全体練習が短く、自主練習が長い。サボろうと思えば、いくらでも手を抜ける環境にあった。
「高校時代は、自主練習なんてものはほぼなくて、指導者から言われたことを必死にやっているだけ。だから、大学に入って、最初のうちは自主練習の仕方がわからなくて、先輩たちの姿を見ながら、自分なりに学んでいきました」
自分自身の長所や短所を理解しておかなければ、自主練習の質を高めることはできない。「試合に出るために今必要なことは何か?」「ライバルに勝つには、今どんな練習をすべきか?」。指導者からの完全トップダウンの高校時代には、こうした思考を持つことすらなかった。
大学卒業後は、社会人野球の強豪・鷺宮製作所で1年間プレーしたのち、1985年から大阪市立(現・大阪府立)桜宮高の体育教師・野球部コーチとして2年間勤務。1987年から縁あって、履正社の監督に就くことになった。
最初の部員は20名ちょっと。1回戦を勝つのがやっとのレベルだったが、「甲子園に行くぞ!」と目標を高く掲げ、厳しい練習を課した。その後、野球部が学校の強化クラブに指定されたこともあり、能力の高い部員が徐々に増え、甲子園を狙えるところまで力を付けていった。
初出場は1997年夏。5回戦以降、大阪産業大付(3対2)、汎愛(2対0)、大阪桐蔭(2対1)、関大一(2対1)と、すべてロースコアの接戦をモノにして、大阪大会を勝ち抜いた。当時は、恩師・梅谷監督の影響を受け、守備と走塁を徹底して磨くスタイルで、甲子園でも得意のロースコアに持ち込むも、専大北上に1対2で惜敗した。
「気付けば高校時代のイヤな指導を肯定していた」
その後の夏の大阪大会では、1998年は3回戦で桜塚に3対4、1999年は5回戦で大阪産業大付に5対6、2000年は決勝まで勝ち進むもPL学園に2対4で敗れた。
勝つのも接戦であれば、負けるのも接戦。「あと一歩」だからこそ、練習に熱が入った。ふがいないプレーがあれば、怒声が飛ぶ。厳しく、きつく指導することが、チームの強化につながると信じていた。だが、前述した通り、行きすぎた指導が明るみに出て、謹慎処分を受けることになった。
グラウンドを離れ、冷静になって考えたときに、思ったことがあった。
「イヤだと思っていた教えなのに、指導者になった今、同じことをやっている」
立場が変われば、人が変わる……とは、よく言ったもので、「監督」という肩書きが付いたとき、その引き出しにあった指導法は、東洋大姫路で受けた教えだった。強くなるには、猛練習が必要。妥協を許さず、できるまでやらせる。ときには“痛み”をもって、根性を植え付けることも必要。
「気付いたら、高校時代に受けたことを肯定するようになっていたんです」
深い一言だった。