※本稿は、関幸彦『藤原道長と紫式部』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
22歳で宇多天皇のひ孫にあたる源倫子を射止めた道長
嫡妻の源倫子との結婚は、永延元年(987)、道長22歳の頃だ。倫子の父・雅信は当時左大臣で、宇多天皇の孫にあたる(宇多源氏)、プライドも高かった。道長は当時従三位、左少将の駆け出し公卿の地位に過ぎなかった。そのため道長との結婚にさほど積極的ではなかったという。このあたりは『栄花物語』〈さまざまのよろこび〉にもくわしい。
倫子の母は「コノ君、タダナラズ見ユル君ナリ」(なかなかの人物です)と確信し、「ワレニ任セタマヘレカシ」(この話は私にお任せ下さい)と断言し、婚儀がなされたという。
つまりは道長は倫子の母に強く信頼され、将来性を見込まれての結婚だった。父・雅信の官歴へのこだわりに比べ、母の人物本位の立場が優先されたのだった。
宇多源氏との血脈上の結合は、道長にとってもアドバンテージとなった。道長は女性を信頼させる気質があったのかもしれない。姉の詮子(円融天皇の妃である東三条院)にも道長は好かれた。道長の第二夫人・明子との婚姻の仲立ち役を積極的になしたのも、詮子だった。明子は安和の変で左遷された源高明の娘である。明子との結婚は、嫡妻・倫子を迎えた翌年のことだった。
第二夫人・源明子も醍醐天皇の孫に当たる高貴な血筋
詮子が、明子との縁を求める道長の兄たちを差し置き、道長へと嫁がせたのも、詮子なりの判断があったからだ。このあたりは永井路子氏の小説『この世をば』の描写の妙はなかなかだ。ともかく道長は女性、それも年上の立場からは、まさしく「貴族道」の風味を多分に有した、好男子と映じる魅力があったようだ。詮子による助力は明子との結婚ばかりではない。関白職の帰趨をめぐる伊周(道長の従兄弟)との争いにおいて、母の立場から一条天皇に強く迫り、道長の「内覧」への就任にもかかわった。
倫子・明子の二人の妻の縁のいずれもが、年上の女性たちの“お眼鏡”に適ったことが大きい。それほどに道長への信頼度が群を抜いていた。
話を第二夫人明子にもどすと、その父は醍醐源氏のエース源高明だった。高明は醍醐天皇の第十皇子で、故実書『西宮記』はその著として知られる。村上天皇皇子である為平親王を女婿とした。
すでにふれたように、この為平親王を冷泉天皇の後継としようとしていたとの密告で、高明は大宰府へと配流される。娘の明子が父の不幸に遭遇したのは幼少の5・6歳の時期とされる。叔父の盛明親王に育てられたが、その後、東三条院詮子に迎えられた。