藤原道長の娘で一条天皇の妃となった彰子に仕えるまで、紫式部の前半生はあまり知られていない。日本中世史の研究者である関幸彦さんは「幼少期に母を亡くしたこともあり、紫式部と姉弟たちの関係は深かったようだ。1歳上の姉がいたが26歳の若さで死去し、式部の家は父親が官位を失うなど、負の連鎖が起きる」という――。

※本稿は、関幸彦『藤原道長と紫式部』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

土佐光起「紫式部図(部分)」
土佐光起「紫式部図(部分)」(画像=石山寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

文人の父親が英才教育をしたから作家・紫式部が生まれた

環境への自覚が芽生えるのは一般的に3歳から4歳の頃とされる。家庭内での自身の立場もそれに入る。兄弟姉妹たちの関係性もそうだ。幼少期に母を亡くしたこともあり、紫式部の姉弟たちとの関係は深かったようだ。式部には1歳年上の姉がいた。姉の誕生の前年は、「安和あんなの変」(編集部註:源満仲らの謀反の密告により左大臣源高明が失脚させられた。以後、藤原氏による摂政・関白が常設される)が勃発した時期にあたる。

その姉は26歳で死去した。死因は不明ながら、長徳の疫病が発生した頃でもあり、これと関係したかもしれない。この姉の他に弟の惟規のぶのりがいた。また父・為時の再婚相手に3人の妹弟もいたという。そうしたなかで血を分けた同母の弟・惟規とは、深い絆で結ばれていたようだ。

父・為時は文章道の菅原家と深い繫がりを持ち、花山天皇の東宮時代には、その読書始どくしょはじめに副侍読として出仕を許されるほどだった。当然、嫡妻との間に誕生した惟規は、父の後継として期待がかけられた。その弟とともに、父・為時は、英才教育を姉の式部にもほどこした。彼女自身、学才は弟よりあったらしい。“姉が男子ならば”と父を慨嘆させたという(『紫式部日記』)。

1つ上の姉は26歳で死去し、同母の弟・惟規をかわいがった

惟規自身、父の期待に応ずべく官吏の途を志すが、寒門の悲哀では如何ともし難く、蔵人くろうどに補されたのは30代の半ばのころとされる。その時期には式部も彰子のもとに出仕しており、後宮にあって惟規を気にかけていたと思われる。だが、その惟規も比較的若くして亡くなる。父為時は寛弘八年(1011)、越後守として赴任したが、それに同道したものの、惟規は現地で没した。40歳とされる。式部42歳のときのことだ。

なお、式部には夫・宣孝のぶたかとの間に一人娘の賢子けんしがいた。賢子は彰子しょうし(編集部註:藤原道長の娘で一女天皇の皇后)に出仕した。母の縁によったのだろうか。祖父・為時がその晩年越後守だったことから、「越後ノ弁」と呼ばれたようだ。彼女の夫は藤原兼隆(「長徳の大疫癘だいえきれい」で死去し、「七日関白」と呼ばれた道兼の子)だった。いささか落ち目とはいえ、摂関家の端くれの準権門に属していた。万寿年間には賢子は後冷泉天皇の乳母となっている。

母・式部譲りの彼女の歌才は、幾多の歌会でも知られ、『百人一首』(58番)にも「大弐三位」として、「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」を残している。紫式部の「めぐり逢ひて……」で知られる『百人一首』で母子並んで配されている。