30歳前後で夫と死別しシングルマザーとなって宮廷に出仕

紫式部は長和ちょうわ3年(1014)、45歳で没したとされる(没年については生年を天禄説<970年>、天延説<973年>とするかにより異なる。前者を採用)。「長和」は三条天皇の年号だ。

道長はこの年49歳で、式部とは4歳ほどのひらきがあった。身分は異なると言っても両人はほぼ同じ世代に属した。後にもふれるが、彼女が道長の娘・彰子のもとに出仕したのは、寛弘2年(1005)の30代も半ばの頃とされる。宮中へ出仕する数年前に夫・藤原宣孝が死去していた。

藤田美術館所蔵『紫式部日記絵巻』の一部、藤原道長
藤田美術館所蔵『紫式部日記絵巻』の一部、藤原道長(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

源氏物語』に筆を染めたのも、宣孝の死去後間もない時期ともいわれている。『源氏物語』の完成にはそれなりの時間がかかったようで、彼女の宮中への出仕後も継続されていた。『源氏物語』と作者の式部は一体の関係にあったようで、彼女が出仕して数年後には「日本紀ノ御局」と評されるほどに公卿たちの間でも、話題となっていた。

必ずしも長いとはいえない彼女の人生を年代記風に語ろうとする場合、20代末の結婚と数年後の夫との死別、さらに宮中への出仕、この時期が大きな転機といえそうだ。『源氏物語』が起筆されるのもその頃であり、女房・紫式部の誕生も、ほぼこの段階に当たる。

紫式部は内気な性格で自己PRの上手い清少納言と対照的

宮中で『源氏物語』は好評を博した。一条天皇も実は内々に読んでいたらしいことは、『紫式部日記』からもうかがわれるようだ。式部を評し「この人は『日本紀』こそ読みたるべけれ」と語ったという。ここでの「日本紀」とは日本の歴史というほどの意味だ。式部こそは日本の歴史を講釈できそうな人だ、との評なのだろう。

「『日本紀』の御局おつぼね」のニックネームも与えられた。そうした評について、彼女自身は知識を積極的にアピールするタイプではなかった。そのあたりは、清少納言のような女性とも、あるいは和泉式部のようなタイプとも一線を画した。

「随筆」というスタイルで自己を語る清少納言は、彼女の有した文才を出すことに遠慮はなかった。自負心をともなうある種の“明るさ”と解されている。また和泉式部のような情熱の歌人タイプは、『大鏡』(道隆伝)が語るように、恋人を次々と変えながら、自由かつ奔放に振舞う強さがあった。要は他人の目をはね返す強さだ。