紫式部の文学的才能は遺伝的要素が大きかったか

紫式部の才能は遺伝要素もあれば、環境もあった。文人貴族であった父方のみならず、母方からのものもあった。母は式部が4歳のころに他界する。母の父・藤原為信ためのぶは『尊卑分脈』によれば、常陸介ひたちのすけ右馬頭うまのかみを歴任、これまた受領ずりょう層に位置した。その父・文範ふみのりは従二位・中納言・民部卿みんぶきょう・中納言とあり、公卿の地位にあった。

系図を見てもらえば分かるように、外祖父・為信の兄弟に為雅ためまさがいる。彼は藤原倫寧ともやすの3人の娘のひとりと結ばれている。この為雅の娘は義懐よしちかの妻だった。義懐(伊尹これただの五男)は花山天皇の側近として、その将来を嘱望された。義懐は美男のほまれ高く、その妹は冷泉天皇に入内、花山天皇を生んだ。その関係で花山天皇の即位の翌年、29歳で参議となった。ただ残念ながら天皇が退位したために、出家を余儀なくされた悲劇の人でもあった。式部の母方の家系で特筆されるのは、式部の母の伯父・為雅の妻側の華麗なる文人ファミリーの流れだ。

【図表】紫式部周辺の系図

母方の血筋には『蜻蛉日記』『更科日記』の作者もいる

為雅の妻の姉妹に『蜻蛉かげろう日記』の作者・藤原道綱の母もいた。もう一人『更級日記』の作者の母もいた。そして兄弟には長能ながよしがいる。彼は謡曲「高砂」の「有情非情の其声、みな歌にもるる事なし」のフレーズでも知られる歌人だ。さらにその兄・理能まさとうの妻方には清原元輔の娘・清少納言もいる。

およそ式部の母方の家筋は父方に劣らず、むしろそれ以上の文才の子女たちで溢れている。

中世への傾きを強くした王朝国家の時代は、「家格」「家職」「家業」等々、「家」にまつわる用語が頻出する。血脈上の「家筋」も似たものだろう。上流の公卿クラスの「家」それぞれの明確な風貌が完成するのは院政期以降としても、摂関期はその「家」が職能により、自己の位置を鮮明に語り始める段階だった。

例えば「家ヲ継ギタル兵」(『今昔物語』巻25-7)の語が伝えるように、相伝されるべきは“文の道”のみではなかった。“兵の道”すなわち“武の道”であっても、社会的認知・追認としての「家ヲ継ギタル」“立場”が重視された。その点では「家」に属することで身分に対応する“立場”の形成がなされた段階だった。王朝国家とは、そうした時代だった。