日本では幕末の時点で300もの城があったが、現在まで天守が残るのはわずか12しかない。歴史評論家の香原斗志さんは「世界遺産となった姫路城も倒壊の危機に何度も瀕していた。いま、姫路城を見られるのは奇跡に等しい」という――。

姫路城
写真=時事通信フォト
姫路城(2022年5月8日、兵庫県姫路市)

江戸時代から日本一だった姫路城が遭遇した危機

平成5年(1993)12月、姫路城(兵庫県姫路市)は法隆寺とならび、日本ではじめてユネスコの世界文化遺産に登録された。日本の城の代名詞である姫路城は、一連の建築群が織りなす景観が比類なく美しい。とりわけ大天守は木造部分の高さが31.5メートルと、現存する12の天守のなかでも最大で、他を圧する存在感を放っている。

たまたま残った城のなかではここが美しい、という話ではない。江戸時代、全国に百数十の天守が存在したが、そのなかでも「姫路城は日本一」と、道中記などで讃えられてきた。

だから、今日まで残されたのも当然だ、と思うかもしれない。だが、実際にはそうではない。取り壊しの危機、倒壊の危機、焼失の危機に遭いながら、奇跡的に脱していまに伝えられているのである。

明治4年(1871)、廃藩置県が断行されると、城の母体である藩がなくなり、旧藩主は華族となって東京在住が義務づけられた。こうして全国の城が主を失ったところに、明治6年(1873)1月に出されたのが、いわゆる「廃城令」だった。

廃藩置県とともに全国の城は、兵部省陸軍部(改組後は陸軍省)の管轄となったが、事実上300前後もあった城のすべてを、兵部省は管轄しきれない。そこで、軍隊の基地として利用できる「存城」と、普通財産として大蔵省が処分する「廃城」に分けたのだ。

このとき姫路城は「存城」とされたが、それは文化財として保存する対象になったのではなく、軍隊が利用するために残すと決められたにすぎなかった。

姫路城三の丸に置かれている歩兵第十連隊跡の石碑
姫路城三の丸に置かれている歩兵第十連隊跡の石碑(写真=Terumasa/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

翌明治7年(1874)、大坂鎮台の姫路営所が城内に置かれ、歩兵第十連隊が入営すると、三の丸に建ち並んでいた御殿群はすっかり取り壊されてしまう。また、その周辺も既存の建造物や石垣などが壊され、陸軍の施設が建ち並ぶことになった。