天守が現存する城は全国に12しかない。それ以外の城の「歴史的価値」は無いのだろうか。歴史評論家の香原斗志さんは「例えば、兵庫県にある赤穂城は、明治時代に廃城となったが、地元の努力で整備が進み、城全域が往時の姿を取り戻している」という――。
赤穂城
赤穂城(写真=663highland/CC BY-SA 3.0 DEED/Wikimedia Commons

「忠臣蔵」の前にあったもうひとつの刀傷事件

将軍の居所である江戸城内で刀を抜くことは、固く禁じられていた。ましてや江戸城の中枢である本丸御殿の松之廊下でのできごとだから、申し開きの余地はなかった。

元禄14年(1701)3月14日、京都から下向した勅使の接待役だった、播磨国(兵庫県南西部)赤穂(赤穂市)の藩主、浅野内匠頭長矩は、高家(儀式や典礼を司る役職)である吉良上野介義央に斬りつけた。長矩はすぐに一関(岩手県一関市)藩主の田村家に預けられ、即日切腹を命じられて、浅野家は断絶となった。

その後、家老の大石内蔵助義雄を中心とする四十七士が、吉良を斬って主君の仇を討ったことは、よく知られる。現在も赤穂城の三の丸には、旧大石邸の長屋門が残り、主君の刃傷事件を伝える早籠が到着して、その門扉を叩いたと伝えられている。

だが、じつは赤穂城主による刃傷事件は、浅野長矩がはじめてではなかった。

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、播磨52万国の太守になって姫路城(兵庫県姫路市)を本拠地とした池田輝政は、一族の池田長政を赤穂に置いた。輝政の死後、赤穂は、備前(岡山県南東部)に25万石をあたえられ岡山城(岡山県岡山市)を居城とした輝政の次男忠継の所領になり、忠継が没すると、輝政の五男の政綱に分与された。

3万5000石をあたえられて赤穂藩を立てた池田政綱だったが、世継ぎがなかったので弟の輝興が相続した。ところが、正保2年(1645)に、この輝興が乱心して正室のほか侍女数人を惨殺。岡山藩にお預けとなり、所領を没収されている。