豊後のキリシタン大名、大友宗麟とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「日本伝統の諸芸に通じた趣味人であり、また西洋の文化も積極的に取り入れた。残された史料や遺跡を見ると、彼の和洋折衷の思考がよくわかる」という――。
大友宗麟像、模写
大友宗麟像、模写(画像=大徳寺塔頭瑞峯院蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

仏門に入りながらキリシタンになった戦国武将

もし日本が鎖国という道を選ばなかったら、と夢想することがよくある。16世紀後半の日本は世界に向けて開かれており、訪れた西洋人たちの目に映った日本は、彼らの文化との差異は大きくても、劣った国ではなかった。軍事的にも、大変な強国であるように映っていたことは、宣教師らが残した文書からも伝わる。

だが、国を閉ざしてからの日本は、海外からの刺激が失われ、文化的な爛熟や洗練こそ得られても、各分野で大きく発展するという機会を失った。外へ向ける目を200年以上にもわたって、ほとんど排除してきたのだから当然だが、欧米と対等に渡り合えるだけの軍事力など、もはや望むべくもなかった。

もし、16世紀後半の様相が継続し、西洋をはじめとする海外との交流が続いていたら、日本の景観も、日本人の文化的な意識も、まったく別のものになっていたのではないだろうか。安っぽい欧米コンプレックスが日本を覆うこともなかったのではないだろうか。

そんな夢想をする際に、真っ先に思い浮かべる往時の人物がいる。豊後(宇佐市、中津市を除く大分県)を拠点とした戦国大名、大友宗麟(諱は義慎)である。

「宗麟」という法号(仏門に入った人に授けられる名)を持ちながら洗礼を受け、唯一残る肖像画は剃髪して法衣をまとっているが、大分駅前広場に建つ像は洋服姿。実際、大友宗麟という一人の人物のなかに日本と西洋が、一定のバランスをたもって同居していた。