ドイツの城に残されている絵画

鎌倉時代初期から続く名家の20代当主、大友義鑑の嫡男として享禄3年(1530)に生まれ、室町幕府12代将軍の足利義晴から一字を拝領し、義鎮と名乗った宗麟。

その人生の転機は天文20年(1551)、豊後府内(大分県大分市)の大友氏館に、イエズス会の創始者の一人で日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルを招き、直接引見して布教の許可を与えたことだった。

それは日本と西洋が本格的に邂逅した瞬間であった。だから、ヨーロッパでも慶事として記録され、そのときの会見の様子は、のちにフランドル出身の画家、アンソニー・ヴァン・ダイクが「豊後大名大友宗麟に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル」という題で、絵画に描いている。

アンソニー・ヴァン・ダイク「豊後大名大友宗麟に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル」
アンソニー・ヴァン・ダイク「豊後大名大友宗麟に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル」。左がザビエル、右が大友宗麟とされる。(写真=BlackRiver/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

それによって宗麟が得たのは、南蛮貿易による利益だった。大砲や硝石など、当時、戦闘に必要な物資などを、イエズス会をとおして購入できるようになったほか、中国や東南アジアとの交流を通じて、領内の経済的繁栄を得ることができた。

日本初の病院が開設された

当時、宗麟の本拠地は、現在の大分市街の東部にあった大友館だった。これは大友氏が豊後国の守護として造営した典型的な守護の城館で、一辺が約200メートルの方形の敷地を堀が囲んでいた。ザビエルが招かれたのもこの館だった。

その周囲に広がる、府内と呼ばれる城下町の規模は、現在の大分市長浜町から元町にかけての南北約2.1キロ、東西約0.7キロで、発掘調査によると、道路が格子状にもうけられ、武家屋敷と商家が混在していた。

そこには弘治3年(1557)、日本初の西洋式病院が開設された。その2年前、府内での布教活動に加わったポルトガル人医師のルイス・デ・アルメイダは、宗麟の庇護のもと、育児院を設置。そして2年後、ついに病院を開いたのである。内科は日本人修道士、外科はアルメイダ自身が担当し、日本初の外科手術も行われている。

続いて、天正8年(1580)にはコレジオ(神学院)も設置された。そんな町々にはヨーロッパのほか東南アジアや中国由来の品々があふれ、象や虎といった珍しい動物が運び込まれ、さまざまな国の人々が行き交っていたという。大友氏館の周囲からは、キリシタンの遺物であるコンタツ(ロザリオ)やメダイ(メダル)も多数出土している。

そして、「府内」という地名は、当時の宣教師たちの記録のなかで、織田信長の「安土」や豊臣秀吉の「大坂」と同等に扱われている。日本を代表する国際都市だったのである。