「東洋のローマ」と呼ばれた臼杵の城
ただし、府内に病院が開設された弘治3年ごろ、宗麟は拠点を府内から臼杵(大分県臼杵市)に移した可能性が高い。ポルトガル人の宣教師、ガスパル・ヴィレラによる同年の書簡にも、謀反を起こした家臣たちから逃れるために、宗麟が「城のごとき島」へ移ったと記されている。
臼杵湾に浮かぶ東西約420メートル、南北約100メートルの丹生島は、明治以降、周囲がすっかり埋め立てられ、いまでは平地のなかの丘陵になっている。だが、当時は四方を海で囲まれた純然たる島で、干潮時にだけ西側の砂州が現れ、陸地とつながった。
この丹生島城は、大友氏の滅亡後、砂洲が埋められて半島となり、江戸時代には譜代大名の稲葉氏による藩政の拠点、臼杵城として、明治維新まで存続した。
丹生島は海に囲まれた天然の要害だった。このため、九州六カ国の守護を兼ねるほどになった宗麟にとって、府内よりも防御しやすかった。城内にはポルトガル製の大砲であるフランキ砲も設置された。
また、古くからの町であるため既得権益が多かった府内にくらべ、城下町と貿易港が一体化した経済都市を構築しやすかったものと考えられている。
ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの著作『日本史』には、臼杵のことが「豊後のローマ」と記されている。宗麟は天正4年(1576)に家督を嫡男の義統に譲ったが、臼杵を拠点にしたまま、府内の義統との二元統治をおこなった。
天正3年(1575)、次男の親家が洗礼を受け、続いて宗麟自身も、ポルトガル人宣教師フランシスコ・カブラルから洗礼を受けた。臼杵には、各地から宣教師や信者が移住し、丹生島城内にも礼拝所がもうけられ、天正8年(1580)には、城下にノビシャド(カトリック教会の修道会員養成機関)まで建設された。
宗麟がみた秀吉の大坂城
その後、九州南部で膨張する島津氏との争いにより、宗麟は厳しい状況に追い込まれる。まず、天正6年(1578)の耳川合戦による敗北が手痛く、その後も島津氏との攻防が激化するなか、豊臣秀吉は天正13年(1585)、両者に停戦を命じた。
宗麟はそれを受け入れ、受諾を表明して救援を求めるべく翌年、大坂におもむき、秀吉から大坂城内を案内されている。宗麟が『大坂城内見聞録』に書き残した大坂城の様子は、おおむね以下のとおりである。
その大きさや普請に集まった人の多さから「三国無双の城」であり、案内された三畳ほどの茶室は、室内の茶器もふくめてすべてが黄金でできていた。
秀吉は宗麟に好意を寄せ、弟の秀長とともに天守の地下から最上階まで案内。最上階では大坂平野を見渡しながら雑談し、気分をよくした秀吉は、自分の寝室まで案内した。そこにはベッドが置かれ、布団の色は深紅で、枕は彫刻を施した黄金色だった……。
秀吉の大坂城内が黄金で飾られた背景には、南蛮文化の影響がある。みずからキリシタンとなり、豊後の城で和洋折衷を実現していた宗麟が、西洋との交流が盛んだった時代の一つの帰結である大坂城を訪れ、案内された――。翌天正15年(1587)6月11日、宗麟が病死し、その8日後の6月19日、秀吉が伴天連追放令を出したことを思うと、きわめて感慨深い。