織田信長による「桶狭間の戦い」に並ぶ奇襲とも言われる「河越夜戦」(1546年)。歴史家の乃至政彦さんは「まだ室町幕府による公方、管領などの任命が有効であった戦国初期、関東で勢力を広げる北条氏を隙あらば潰そうという管領たちの大軍が、河越城(埼玉県川越市)を取り囲んだ。氏康は低姿勢で和睦を結ぼうとしたが、主筋である足利晴氏らの態度にブチぎれ、わずかな軍勢で攻撃を仕掛けた」という――。
北条氏康像
北条氏康像(画像=小田原城天守閣所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

『東京リベンジャーズ』のような抗争が続いていた戦国の関東

天文てんぶん10年(1541)7月、北条氏綱うじつなが病死した。その息子、北条氏康うじやすの名を轟かせることになる「河越城かわごえじょう合戦」は、この4、5年後のことである。本来なら関東のトップは、下総古河こがにおわせられる関東公方(※1)・足利晴氏はるうじのはずであった。だが、関東の事実上の天下人は氏綱と化していた。どうしてそうなってしまっていたのか。

ある時、公方の一族で内輪もめがあった。永正15年(1518)、下総しもうさの足利義明よしあきが独立して、「小弓公方おゆみくぼう」として振る舞うようになったのだ。もちろん支持する層あってのことだ。このため、関東公方は、小弓公方の義明と、古河公方の晴氏に分裂することになった。これが関東公方凋落ちょうらくの一因となっていく。