今に名を伝える戦国武将には、その人生を変えた「運命の城」が存在する。織田信長にとっては天下人への道を開いた「桶狭間の戦い」の時の清洲城だった。歴史家の乃至政彦さんは「信長は、今川義元から大軍を向けられ、周囲に籠城を勧められたが、家臣が書いた軍記『信長公記』は、信長が城を出て戦うことを決断した経緯をリアルに伝えている」という――。
歌川豊宣「尾州桶狭間合戦」明治15年(1882)
歌川豊宣「尾州桶狭間合戦」明治15年(1882)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

もし豊臣のプリンスが自害せず家康に降参していたら…

慶長20年(1615)夏、豊臣秀頼は大坂城にいた。

このとき大坂城は、徳川家康・秀忠が総指揮を執る幕府軍によって完全包囲されていた。

追い詰められた秀頼は、それでも城内に立て籠もり、牢人(浪人)を中心とする豊臣将士の迎撃にすべてを託すことにした。

しかし豊臣将士は、日本全土から集まった幕府軍に惨敗。

秀頼は城内に傾れ込む敵兵を前にしても逃げることなく、その命を散らした。享年23――。

ここで「もし」を持ち出す。

もし、あらかじめ秀頼が家康たちに「大坂は大野治長や牢人たちに牛耳られて困っています」と密書を送り、迎撃に向かう豊臣将士を見送ったあと、「義は徳川殿にあり、不逞の牢人たちを二度と天守に入れさせるな」と秀頼が幕府方に寝返って、閉門していたらどうなっただろうか。

豊臣の威名は地に落ちる――と思われるかもしれない。

だが、徳川の天下が固まれば、「あの時よくぞ決断された」と、徳川家はもちろん諸藩の史家も賛辞を惜しまず、それどころか「秀頼様は哀れにも逆臣たちの悪謀に悩まされ続け、神君がこれをお救い申し上げたのだ」とする物語を完成させたのではないか。

織田信長が名を上げた「桶狭間の戦い」にも裏事情があった

実は、こういうことをやろうとする「お殿様」は、戦国時代にかなりいた。

大坂落城から半世紀以上前の永禄3年(1560)に尾張で起きた「桶狭間合戦」もこれと同じ構図が背後に隠れている。

さて、桶狭間合戦の内容は、信長家臣だった太田牛一(1528〜1613)の手による『信長公記しんちょうこうき』[首巻]が、もっとも細かく書き伝えている。合戦の実像を探るには、記主(書き手)の主観が反映されている軍記であることを踏まえながら、同書を間違いのない形で読み進めるのが最前と思われる。

もちろん傍証に資する一次史料も少なくないが、合戦の具体像と全体像を探る上で根本史料となるのは『信長公記』をおいてほかにない。

同書は牛一ではない別人が書いたものとする意見もあるが、印象論を脱しておらず、文章も牛一のものとみて違和感を覚えるところはない。ひとまず本人の執筆と考えたい。

さて、この[首巻]にある桶狭間の描写である。

かなりの長文となるため、ここに全文は引用しないが、そこにある清洲城での軍議を見直していこう。