多くの人が参考にしてきたものとは別の「信長公記」重要写本
例えば、同書の首巻には、原本がなく、複数の写本だけがある。全て誰かが書き写したもので、それぞれ微妙に内容が異なる。
そのうちほぼ同内容の町田本(写本の一系)や陽明本が参考にされてきたが、これだけで、正確な事実にどこまで近づけるか疑問に思うのである。
例えば、ここで別の写本のうち、マイナーながら注目度の高い「天理本」がある。
こちらの桶狭間合戦前夜の様子は、メジャーな合戦像と大きく相違するところがある。
少し長いが、かぎや散人訳『現代語訳 信長公記天理本首巻』(2018年、デイズ)から、該当部分の現代語訳を引用しよう。
信長は「清洲城に籠城したら負ける」と主張した
義元は十八日の晩方に大高城へ兵糧を運び入れ終えると、今川方に味方すると言ってきた木曽川河口の服部党が、明朝の潮の干満を利用して大高城に兵粮搬入する際に、織田方の付城の兵士に邪魔されないよう、十九日の朝を期して丸根と鷲津の二カ所の付城を排除しようと計画していることは間違いない」との情報を得た、と十八日の晩になってから佐久間大学から清洲に報告してきた。
報告を得たその十八日夜の軍議での信長は、是非とも尾張の国境で義元と一戦交えたいと主張した。敵に国境を踏み破られたうえに、すぐに敵国三河へ逃げ込まれてしまっては、全く戦う意味が無いとの考えからである。
それに対して家老たちが皆一様に意見するには、「敵の義元は四万五千と号す大軍であり、味方の兵力はその一割にも満たない。それに、これ程素晴らしい清洲城という名城を持っているのだから、籠城して機会を見計らったうえで合戦に及ぶのが最善の策である」というのである。しかし信長は、それには頑として同意しなかった。その場で信長が言ったという事を伝え聞いたところによると、「安見右近という者は、始めは積極的に打って出て戦っていたが、ついには籠城を選んだことにより、味方の兵力も次第に少なくなり、手の打ちようがなくなって没落したことが、身近な例としてあるではないか」とのことであった。
結果、国境で決戦することに決し、信長がその場に酒を運ばせると、宮福太夫は「武将たちの交歓を盛り上げるための酒席が寂しくてはいけない」といって謡いだし、それに信長が鼓を合わせた。それからは入り乱れての酒席になり、信長は退出したということである。
かぎや散人訳『現代語訳 信長公記天理本首巻』(2018年、デイズ)