なぜ天理本では桶狭間の登場人物が違っているのか

天理本の首巻は寛永年間の写本と見られる。その内容は小瀬甫庵(1564〜1640)の『信長記』(1622)と似た箇所があり、天理本は甫庵本を模倣したものとする主張もある。

だが、それならばもっと甫庵にある見栄えの強い独特の記述を、そのまま流用しなかったのはなぜかという疑問が生じる。

例えば、桶狭間合戦時の信長が、軽挙にも中島砦に移動しようとするところを、家臣たちが懸命に抑止するシーンがある。

小瀬甫庵はこの家臣たちを、「林佐渡守(秀貞)・池田勝三郎(恒興)・毛利新介(良勝)・柴田権六(勝家)」としている。いずれも信長の生涯に重要な役割を果たす有名な人物である。だが、天理本は、「林・平手・池田・長谷川・安井・蜂屋」と、甫庵と比べて圧倒的といえるぐらい地味な人物を選んでいる。

近世の戦国軍記を読み慣れていれば、ご理解いただけるだろうが、もし甫庵の軍記を参考にしているなら、こういうわかりやすい人選を、おいしい記述として踏襲するはずである。

例えば、上杉謙信の有名な家臣に「鬼小島弥太郎」という人物がいる。この人物は戦国時代の史料には一切登場せず、江戸時代の上杉家公式史料『謙信公御年譜』にも「木島弥太郎」として登場する程度で、しかもその事績はそれまでに民間の軍記で伝えられる痛快な内容を書き写したようなものであった。

太田牛一は愚直な性格で、脚色はしていないのではないか

これが、次第に各種軍記で独り歩きするようになり、面白おかしく脚色されて、0から1に、1から10にとキャラクターを造形されてしまったのである。

こうした現象は、「史料批判」という概念のなかった近世戦国軍記に定番の流れである。

天理本は、太田牛一本人の手によるものと考えるのが妥当だろう。

しかし、なぜ天理本の首巻とほかの首巻は、桶狭間前夜の記述が大きく違って見えるのだろうか。

この点は矛盾するというより、太田牛一がどちらも真実を書いていると受け止めるのが妥当に思う。

甫庵は太田牛一を「彼泉州(太田牛一)素生愚にきて直なる故、始聞入たるを実と思ひ、又其場に有合せたる人、後に其は虚説なりといへ共、信用せすなん有ける」(『豊臣記』自序・凡例)と評しており、「愚直な性格で、初めに聞いた話を本当だと思い込み、その場にいた人があとから『それは事実ではない』と指摘しても信用しようとしない」というほど、頭の固い人物であったという。

こういう人物であるから、物語を独自に創作して、書き散らす性格でないはずである。

さて、ここでひとつ桶狭間合戦時の清洲城に関して重要な情報を付け足す必要がある。

清洲城の城主は、この時、織田信長ではなかった。実はここに信長の上司がいたのである。

若き尾張守護・斯波義銀しばよしかねである。

※後編に続く

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