足利晴氏、上杉憲政、上杉朝定による河越城攻囲

上杉朝定は河越城の奪還を望んでいた。憲政は関東管領の役職を望んでいた。晴氏は、氏康の全面降伏を望んだであろう。彼らにすれば、氏康など今川義元の武威に屈した腰抜けにすぎない。河越城を人質にして、脅かしてやればなんでも言うことを聞かせられると思ったのではないか。

対する氏康は、何度も上杉憲政に使者を往復させ、河越城から兵を返すよう交渉したと思われる。氏康は今川軍との対峙を終えた12月から、翌年4月までの4カ月間、軍事的リアクションをまったく起こしていない。氏康が河越城を見捨てるはずもないので、平身低頭する思いで和睦の案を繰り返し伝えていたのだろう。

その成果として、足利晴氏だけは一度帰陣を決意したようだった。氏康は安堵あんどした。ところが、晴氏はしばらくすると翻意して、また河越城攻めに加わった。それまで北条との交渉材料であったため、氏康から河越城への兵糧輸送を見逃していたが、今度はその糧道をふさぐ形で布陣した。

もはや、決断の時である。天文15年(1546)3月、氏康は相模から軍勢を率いて武蔵河越城へと北上する。

氏康は連合軍に対して穏便に交渉を進めたが……

足利晴氏・上杉憲政・上杉朝定は、一歩も譲る気がなかったようだ。河越城がずっと持ち堪えたのは、彼らがあえて手ぬるく包囲していたからであろう。この間、河越城は一応生き延びられるだけの兵糧を運び入れることができていた。

ついに氏康本人が出てきた。氏康は、戦場にいる敵陣の武将たちに口利きを頼み、合戦直前まで低姿勢な交渉を繰り返したようである。氏康はこの時の武将たちとの書状で、小金城主・高城胤忠たかぎたねただに「御同意」を得られたことに喜び、「御芳志」に「奉憑(たのみたてまつります)」と、ほとんど土下座するような姿勢を見せている。

また、氏康は、太田家臣・上原出羽守にも、あなたの働きかけで扇谷家臣の太田全鑑(岩附城主・太田資顕)と、入魂じっこん(仲のいい関係)にする運びになったことへの謝辞を述べている。通説は、一連の書状を、彼らに内応の約束を取り付けたものと見ているが、結果から訴求的な解釈を加えたものであって、無理が多い。このタイミングで、兵数で優位に立つ上杉軍を裏切って、ここまで腰の低い若者の下につくことを考えるだろうか。