一条天皇の妃、定子はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「一条天皇との関係は、当時の常識では考えられないほど仲睦まじい夫婦だった。しかし、それゆえに周囲から疎まれ、決して幸せな人生ではなかった」という――。

みずから髪を切って出家した皇后・定子

中宮定子(高畑充希)の転落ぶりが痛々しい。NHK大河ドラマ「光る君へ」の視聴者には、胸を痛めている人も多いと聞く。

映画『バービー』の舞台あいさつに登壇した高畑充希さん=2023年8月2日、東京都千代田区
写真=共同通信社
映画『バービー』の舞台あいさつに登壇した高畑充希さん=2023年8月2日、東京都千代田区

藤原道隆(井浦新)の長女で、一条天皇(塩野瑛久)のもとに入内して中宮となり、道隆にはじまる中関白家の栄華を象徴していた定子。ところが、第20回「望みの先に」(5月19日放送)で、とんでもない事件が描かれた。

兄の伊周(三浦翔平)は弟の隆家(竜星涼)と連れ立って、花山法皇(本郷奏多)を矢で射かけてしまい、それを機に、兄弟は一条天皇の母である東三条院詮子(吉田羊)や道長(柄本佑)を呪詛した疑いまでかけられる。怒った一条天皇は、伊周を太宰権帥、隆家を出雲権守に、それぞれ降格のうえ配流することに決めた。

これに対し、兄弟は定子が住む二条邸に立てこもった。このため、二条邸は検非違使による捜索の対象となり、定子は体を張って伊周らを守ったが、さすがに中宮の姿勢としてそれはまずい。責任を負った定子は、みずから髪を切って出家してしまったのである。

第21回「旅立ち」(5月26日放送)では、定子はすっかり気力を失い、食事すらまともに摂らない。そのうえ住まいの二条邸が火事になる始末。みずから命を断とうとまでしたが、追い詰められた彼女を、ききょうこと清少納言(ファーストサマーウイカ)が支える様子が描かれた。

一条天皇が定子にこだわる理由はないはずだった

だが、それでも、一条天皇の定子への寵愛に変化はなかった。定子は長徳2年(996)12月16日、第一子の脩子内親王を出産したが、まず、その時期を考える必要がある。

弟の隆家らが花山天皇を射かけ、「長徳の変」がはじまったのは長徳2年(996)1月16日で、兄弟の配流が決まったのは4月24日だった。定子はその間に懐妊しており、すなわち、一条天皇は定子の兄弟が事件を起こしても、彼女を内裏に参入させていたことになる。

ただし、妊娠したとき、定子はまだ出家していなかった。その後、「長徳の変」によって実家はすっかり没落し、自身は出家し、夏には二条邸が全焼し、10月には、ドラマでは板谷由夏が演じている母の貴子が死去。絵に描いたように不幸が続き、後ろ盾はまったくなくなり、定子をめぐる環境は激変する。

さすがにこうなると、一条天皇が定子にこだわる理由は、客観的にはなかった。そもそも定子が出家した時点で周囲は、彼女は一条天皇と離別したと考えた。出家するとはそういうことだった。山本淳子氏は次のように記している。

「定子一人しかキサキのいなかった一条天皇はこのとき独身になったと見なされ、だからこそ定子の出家から二カ月後の長徳二年七月には大納言・藤原公季が娘の義子を、さらに十一月には右大臣・藤原顕光が娘の元子を入内させた。後宮を舞台にした権力闘争は定子という最強のキサキの存在によって封印されていたが、彼女の退場によってそれが解かれたのである」(『道長ものがたり』朝日選書)。